Sweet,Sweet,
Honey Moon

 4.LOVE SPOON 〜




「啓太。起きろ、ほら」
 何度か身体を揺すられて、啓太はぼんやりと目を覚ました。目は開いたが頭はまだ寝ていて、無意識に中嶋に抱きつくと「もう少し……」と甘えた声を出した。
「こら寝るな。起きるんだ」
 さらに強く揺すられて、啓太の目はようやく焦点を結んだ。苦笑の形に作られたくちびるがまず目に入り、それから中嶋の顔全体が見えた。
「……おはようございます」
「ああ。おはよう」
 ここまではいつも通りの朝の光景である。中嶋と朝を迎えると、いつもこうして起こしてもらっているのだ。ところがどこか違和感があった。
 最初に気づいたのはどこにも痛みがないということであった。筋肉痛だったり身体の奥の痛みだったりさまざまであるが、今朝はまったくそれがなかった。さらに驚いたことに、ふたりともパジャマを着ていた。こんなことは以前に一度、中嶋が卒業してしまうという事実に、啓太が取り乱してしまった日の翌朝にあっただけだ。そして最後にベッドが狭いということ。中嶋が抱き寄せているのは、何も起こすためだけではないようだ。ここでようやくあたりを見回してみて部屋の中が違うのに気がつき、旅行に来ていたことを思い出したのだった。
 一度思考がつながると、いろんなことが一気に思い出されてきた。
 一足先に出かけた中嶋を追って英国まできたこと。中嶋に会えるまで、同行してくれた和希に心配をかけてしまうくらい不安だったこと。だけどそんなものは空港で中嶋の顔を見たとたん、雲散霧消してしまった。それから篠宮や丹羽と合流し、丹羽の運転する車でカーディフに着いたこと。夕食のシーフードレストランで篠宮からもらった薬を飲むと眠くなって……。
「あーっ。もしかして俺、昨日、寝ちゃいました?」
「寝てたな」
「そんな……」
 啓太はしょんぼりしてしまった。昨夜は記念すべき夜になるはずだったのに。いくら薬を飲まされたからといっても、ひとりでさっさと寝てしまったなんて……。
「ところで俺、このベッドで寝てましたっけ? 着替えさせてもらってたとき、何度か壁に当ったような気がするんですけど」
「確かにな。俺が寝かせてやったのはあっちのベッドだ」
「……???」
「こっちのベッドにもぐりこんできたのはおまえだろう。トイレに行ったと思ったら、いきなり入ってきたからびっくりしたぞ。よほど襲ってやろうかと思ったくらいだ」
「……襲ってくれたらよかったのに」
「残念ながら意識のない人間を抱く趣味はない。重たい分、ダッチワイフより扱いにくいからな」
 中嶋はベッドから離れるとパジャマを脱いで服を着はじめた。朝の光の中、無駄のない筋肉が無駄のない動きをして、まるで舞踏を見ているかのように美しい。ベッドの中の啓太はその様子を、半ばうっとりとしながら眺めていた。
「あの……。昨夜はすみませんでした」
「謝る必要はない。薬を飲ませたのは俺だ。それに遠藤からも、気をつけてやってくれと言われていたしな」
「和希から!?」
「年寄りは心配性なんだ。気にするな。……さ、起きろ」
「う……ん。もう少しだけ、こうしてたら駄目ですか?」
「啓太?」
「だってこのパジャマ、中嶋さんが着せてくれたんだもの。脱ぐのがもったいなくて」
「だったら今日はパジャマのまま外を歩くんだな」
 冷たく言い放たれて、啓太は慌てて起き出した。和希は甘えて来いといったけれど、慣れないことはどうも難しい。

 結局、カーディフ・ベイには行かなかった。ホテルからだと歩いていけなかったのと、昨夜より寒くなっていたからだ。啓太も昨日のスタジャンはやめて、ハーフコートを着た。地図をもったのはやはり篠宮である。これは篠宮がリーダーシップを取っているというよりも、丹羽に任せていては脱線ばかりしてどこへ行くかわからないからだろう。チェックアウトのあと、車を置いておかせてくれるよう交渉したのも篠宮だった。いつもならそういった交渉は中嶋の役目なのだが、啓太のことを気遣ってか、篠宮が先に済ませていたのだった。
 昨夜食事をしたレストランの前を通り過ぎて、カーディフ城の方に歩く。まだ中に入れる時間ではなかったので、まずはシヴィック・センターまで行って白亜の美しいシティ・ホールを見学した。ドラゴンのいる丸い屋根。左手には背の高い時計塔が建っている。ドラゴン、それもとくに赤いドラゴンはウェールズの象徴であると、ガイドブックを見ながら篠宮が説明した。上半分が白で下が緑の地に赤いドラゴン。これがウェールズの国旗なのだ。
 それから改めてカーディフ城に行った。ずいぶん駆け足で見たつもりだったが、出てきたときにはもう昼前になっていた。城の前を左に折れると、そこはショッピング街になっているらしい。幅の広い石畳の両側にはやはり石造りの建物が建ち並び、道のところどころに植えられた樹々が芽を吹かせていた。日本と違って空はまだグレイに近い色調であるが、こういったわずかな緑が春の訪れを高らかに告げているようであった。この通りでは車の進入が禁止されているのか、女性や子供連れ、ビジネスマンのような人々がのんびりと歩いている。普段は早足の中嶋たちまでがゆっくりとショーウィンドウを眺めながら、昼食をとれる店を探して歩いた。
 ウェールズ語と英語が混在する石造りの街は異国情緒たっぷりで、ただ歩いているだけでも楽しい。そんな中、英語で「LOVE SPOON」と書いてある店は嫌でも啓太の眼を惹いた。ウインドウをのぞいてみると、いろんな長さや形をした木製のスプーンがディスプレイされていた。どれも一刀彫りで、ハート、錨、鍵、スリットにボールがいくつか閉じこめられているものなど、デザインも組合せもさまざまである。
 それが何なのかは入ったみやげもの店でわかった。壁にかけられたスプーンの横に日本語の説明書きがしてあったのだ。それによるとラブ・スプーンは五百年位前から伝わる風習で、ケルトの男は心をこめて彫ったスプーンを愛する女性に贈ったのだという。錨は安定。ボールの数は子供の数など、相手に伝えたいメッセージを表している。女性はこれを受け取れば求愛を受け入れたことになるのだそうだ。啓太はそんなスプーンを贈れる恋人たちがうらやましくて、その場をそっと離れた。こうして中嶋と一緒にいられるだけで十分すぎるくらい幸せなのに、普通の恋人たちをうらやましいと思ってしまう自分の心が哀しかったのだ。啓太は絵はがきと赤いドラゴンのぬいぐるみを買っただけで、中嶋たちが買い物をしている間、向かいの店のウインドウに張り付いていた。

「どうした。探したぞ」
「え、あ、あの。この店、母さんが好きでよそ行きのスカートとか、よく買ってたりしてるから……」
 突然、うしろから声をかけられて啓太は思わず飛び上がった。驚いてとっさに出た言い訳だったが嘘ではなかった。花模様で有名なその店は、日本でも人気の高いブランドだったのである。ほんの少しの間、何かを考えていた中嶋は、啓太を連れてその店に入った。ゆっくりと中を見回してから、食器などを置いてあるコーナーへ向かう。花柄と言ってしまえば同じだが、日本では見ないようなしゃれた絵柄のものがいくつも並んでいた。店員を呼んで何かを話していた中嶋は、やがてその中でもとりわけシックで趣味のいいティーカップを選び出した。
「どう思う?」
「すごくいいと思います」
「よし。じゃあこれにしよう。あとは……。ポットとケーキ皿もつけるか」
 カップアンドソーサーとケーキ皿が半ダースずつ。それにポットを置くとカウンターに小さな山ができた。ミルクピッチャーとシュガーポットだけが同じ絵柄でも色違いになっていて、それが全体の印象を引き締めている。カードで支払いを済ませた中嶋が、日本へ送る伝票を書く手を止めて、啓太が下げていた袋を見遣った。
「そのドラゴンは朋子ちゃんへの土産か?」
「そうですけど……?」
「じゃあそれもよこせ」
 えっと思う間もなく袋が取り上げられ、中の絵はがきだけが啓太に戻された。ドラゴンのぬいぐるみはケーキ皿の上に載せられた。
「えっ!? それって、あのもしかして、これ、うちの……?」
「ああ。お母さんと朋子ちゃんへの土産だ。ドラゴンも一緒に送ってもらえばいいだろう?」
「そっ、そんな。駄目ですよ、こんな高いもの」
「かまわん。どうせ土産は買わなきゃいけなかったんだ。ここで済ませてしまえばあとが楽だ」
 中嶋が支払いをしていたとき、ちゃんと金額を見ていたわけではなかったが、全部あわせると300ポンドくらいはしていたはずだ。ざっと計算しても軽く5万円は超えてしまう。「有難うございます」ですませられる金額ではなかった。
「なんだ、なんだ? 早速夫婦喧嘩か? 成田離婚なんてするなよ」
 店を出てからも駄目だと言いつづける啓太に気づいて、丹羽たちが歩み寄ってきた。何も言わずに姿を消したふたりを探していたものらしかった。
「あっ、王様。実は……」
 ふんふんと頷きながら啓太の話を聞いた丹羽だったが、内心では少し驚いていた。あの中嶋が啓太の家族にまで気を遣っているのだ。啓太とのことが本気であるのは十分承知していたが、そこまでとは思っていなかった。家族に高価なお土産をもらって困りきっている啓太よりも、そんなお土産を買った中嶋が、丹羽には意外であると同時に、とても微笑ましく思えたのだった。ここはひとつ、自分が何とかしてやらなければいけないだろう。やがて話を聞き終わった丹羽は、腕組みをしてもっともらしい顔を作った。
「啓太。気をつけないといかんぞ。ヒデの目的はおまえの妹にあるのかもしれない」
「えっ!? 朋子……ですか?」
「そうだ。ヒデは将来、その子と結婚しようとしているんだ。そうすれば名実ともにおまえを弟にできるからな」
「いや。それは違うぞ、丹羽。間違えるな」
 状況を素早く見て取ったらしい篠宮が、すました顔で横から口を出した。
「伊藤の妹と結婚するんだ。弟になるのは中嶋の方だ」
「ふうん、なるほど。そういう考えもあったか」
 中嶋はそう言うと、突然の話の展開についていけなくて目を白黒させている啓太を自分の方に向かせた。このあたり、打ち合わせなどしていなくても、丹羽や篠宮とは阿吽の呼吸であった。
「お兄さん。10年待ちます。朋子ちゃんを俺にください」
「ぜえったいに駄目ですっ !!」
 両手をグーにし、顔を真っ赤にして叫んだ啓太に、他の3人が爆笑した。

 成田離婚の危機をうやむやにまとめてしまった丹羽は、食後のとんでもなく不味いコーヒーを一気に飲み干すと、篠宮を促して席を立った。
「先に行って車を取ってくる。シティ・ホールのこっち側に停めとくから、ゆっくりして来いや」
「わかった。シティ・ホールだな」
「そのかわり、支払いの方はよろしく頼むわ」
 丹羽は啓太の肩をぽんと叩いて出て行った。篠宮も啓太に微笑いかけてからそのあとを追った。あとに残された啓太は、少し不思議に思いながらふたりの姿を見送った。
「どうしたんでしょう、王様たち……」
「ちょっと気をきかせてくれただけさ」
 問いかけるように啓太が中嶋の方を見た。こういうときのさりげない上目遣いが、どれほど回りの人間の心を掴むか自覚していないのだろう。中嶋はほんの少し細めた眼で啓太の視線を受け止めながら、啓太の前のティー・カップを脇へのけた。
「俺がこれを注文していたのを、あいつらは知っていたからな」
 啓太の前にそっと置かれた細長い小さな箱。ピンクがかったクリーム色の包装紙で包まれていて、こげ茶の細いリボンは芸術的とさえいえる結び方がしてあった。それに眼を落としたとたん、弾かれたように啓太が顔をあげた。これって、もしかして……?
 中嶋の眼に促された啓太は、早鐘のようになる胸を押えながらリボンと包装紙を取り、蓋をあけた。思ったとおり、中には20センチほどのラブ・スプーンが入っていた。少し小ぶりのそれは、先刻、あちこちのショー・ウインドウで見たような鍵やハートを組み合わせたデザインではなく、葡萄の葉やつるが複雑にからみあった形をしている。そしてよく見ると、その中に「H」や「K」の文字が隠されていた。
「岩井にこれの話を聞いてからずっと、おまえに贈りたいと思っていた。……受け取ってもらえるか?」
 啓太は指の先でラブ・スプーンの輪郭を、いとおしげにそっとたどった。ふたりの頭文字が入っているから、これが中嶋の特注品であることがわかる。旅行に出る前に中嶋はこれを注文していたのだろう。こんなに細かい細工は、二日や三日で仕上がるものではないからだ。啓太はともすれば落ちてきそうになる涙をこらえるために、葡萄にこめられたメッセージは何と書いてあったのか思い出そうとした。
「あの……。俺がさっきおみやげ屋さんの外に出てたのは、あの店が母さんの好きなブランドだからっていうだけじゃなかったんです」
「啓太?」
「あっ。もちろんそれは嘘じゃないです。朋子なんてお年玉で買ったあそこのクッションを宝物みたいに大事にしてるし……。だけどあのおみやげ屋さんでラブ・スプーンの説明を読んでたら、こんなのを堂々と贈りあえる人たちがうらやましくて。でもそれ以上に、うらやましいと思っちゃった自分が嫌で……。だって俺、このスプーン、本当に欲しいと思ったんです。欲しくて欲しくてしかたなかったんです。だから見ていられなくて、他の店に逃げてしまった……」
「……啓太。俺はおまえとのことを隠すつもりはない。だからこうして連れてきているし、スプーンも堂々と贈る。……おまえは違うのか?」
「違いません。俺も堂々とこのスプーンを受け取ります。だって本当に、本当にうれしいから。有難うございます。中嶋さん…… !!」
 啓太は両手でそのスプーンを、まるで抱くように握りしめた。隣の席にいたビジネスマンらしきふたり連れが、親指を立てて何かを言っていた。それに中嶋が応えると、周囲の席から拍手がわきおこった。だが、中嶋だけをまっすぐに見つめている啓太の耳には何も届いていなかった。 祝福の喝采の中、中嶋は両手で啓太の頬を包みこむと、熱く誓いのくちづけをした。



  父さん。母さん。朋子へ。
  
  成田を発ってから12時間。
  ヒースロー空港で無事、中嶋さんたちと合流できました。
  そのあと王様の運転でウェールズの首都カーディフに来ました。
  赤いドラゴンに守られたとてもきれいな街です。
  中嶋さんが母さんと朋子におみやげを買ってくれました。
  航空便で送ったので来週中くらいに着くと思います。
  今日はこれから次の目的地に向います。
                                     啓太





いずみんから一言。

啓太くんのお母さんの好きなブランド。お分かりですよね。検索で引っかかるのが怖いので書きませんでしたが、彼女はウェールズの出身で、邸宅がホテルになっていたりします。
ラブ・スプーンの葡萄の葉にこめられたメッセージは、そのうち岩井さんあたりに語ってもらおうと思っています。さて。ヒデは啓太に何を伝えたかったのでしょうか。
赤いドラゴンのぬいぐるみは、鼻の穴や尻尾の先に緑のフェルトが貼ってあって、私が見つけた写真ではどれもあんまり可愛くなかったです(笑)。




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