Sweet,Sweet, Honey Moon |
〜 7.啓太のいる場所 〜 |
チェスターは英国有数の古い街である。街を囲む城壁は西暦70年頃、ローマ人が砦を守るために作ったのが起源だといわれる。その後、何度も形を変えているが、当時のものも残されている。 「えーっ !? そんなに古かったんですか? あの壁」 ホテルを出て旧市街へ向かう道すがら、中嶋が話してくれた街の簡単な歴史を聞いて、啓太は素っ頓狂な声をあげた。簡単に「西暦70年」と言うが、それはつまり、キリストが生まれてからたったの70年しか経っていないということになる。ユダに裏切られていなかったらまだ生きていたかもしれない頃だ。その時代に海を越えてこんな所まで遠征してきたなんて、日本人のスケールなどはるかに超えてしまっていた。 「新しい部分で800年くらい前だな。これだったらだいたい想像もつくだろう」 「頼朝が鎌倉幕府を開いた頃ですよね」 「そうだ。街の方はクロムウエルの軍隊に1年半も包囲されてかなり壊されたらしい。まあ、おかげで今の街並みができたとも言えるな。黒い梁の建物は16世紀から18世紀にかけてできたものだ」 歴史の講義みたいなものだったが、中嶋に腰を抱かれてゆっくりと歩く啓太には内容など二の次、三の次だった。中嶋が自分のためだけに話をしてくれている。大事なのはそれだけだ。 ここは小さな街なので、ホテルからまっすぐ川沿いに行っても城壁には着くのだが、中嶋が「こっちからの方がいい」と言って少し回り道をした。公園の中を通り抜けてからふたつ目の角を左に折れる。そこは一見したところ、左右に英国風の建物が建ち並ぶ普通のショッピングストリートだった。日本にもあるカジュアルウエアの店やおなじみのコーヒー店などもこういった建物に入っていて、日本に居る時の感覚でいれば見過ごしてしまいそうだ。城壁はどこだろうと思いながら歩く啓太の前に、道の両側の建物をつなぐようにしてかかる橋が見えてきた。 「あれっ……? 時計、ですか?」 「そうだ。あれはイーストゲート・クロック。建物があるからわかりにくいが、あの左右に城壁があるんだ。時計がいつできたかは文字盤に書いてあったと思うから見てみるといい。ヴィクトリア女王の即位60周年記念だった記憶はあるんだがな」 近づいてみると確かにそれは時計だった。頭上にかかる橋の真ん中に足のついた時計が立っている。いかにも女王らしく赤の地に白の文字盤がはめこまれていて、金文字で1897と数字が入っていた。これが中嶋の言った、時計のできた年なのだろう。その下に同じく赤地に金で説明らしき文字が入っているなど、金や銀の装飾が可愛らしい感じがした。 「さて。ここから旧市街だが……。城壁を回るとなると2時間くらいはかけたいからな。それだけ歩くのはまだ無理だろう。今日は街の中だけで我慢するんだな」 「はあい」 昨日1日休んだので、歩けないことはないと啓太は思った。だがまだ明日も明後日もこの街にいるのだ。明日の楽しみを残しておくのもいいだろう。運のいい啓太は旅先で雨にあったことなどないのだ。 下から見上げながらゲートをくぐって旧市街に入ったふたりは、まず中央にあるザ・ロウズに向かって歩き始めた。啓太はおのぼりさんよろしく、きょろきょろと左右を見るのに忙しい。あとで和希のお土産を探しに戻れるように、あたりの店を物色しながら歩いていたのだ。だが白壁に黒い梁が特徴的な建物は道に面した一段高いところが回廊になっていて、その奥に店が作られている。カーディフやラドローのようにウインドウショッピングをしながら、というには少し勝手が違った。 「これ……。建物全部つながってるんですか?」 「ああ。よくもこれだけ隙間なく建てたものだと感心するだろう?」 「ええ」 「まあ、雨の日には便利だな」 回廊の手すりにもたれた子供が、こっちに向かって手を振っていた。思わず手を振り返す啓太に、中嶋がほんの少し目元を緩めた。 「あはは。可愛い。どこの子だろう」 「こんな時季に観光に来るんだからな。アメリカ人か……。あるいは英国に赴任してきていたどこかの国の家族が、こっちを離れることになって観光に回っている、といったところかもしれないな」 そういえば行き交う観光客はアメリカ人っぽい人間が多かった。日本人や韓国人といったツアー客が見られないのは時間的なものだろう。昨日ここに泊まった客たちはもう次の街を目指している頃だ。ここへ向かっている旅行者が着くにはまだ少し間がある。午前中のこの時間、街は啓太たちのためにあった。 チェスターは小さい街なので、わずかな時間で街の中はほとんど見て回れた。もちろんじっくり見ればそれなりに時間もかかるのだが、中嶋は今日は観光というより、啓太を旧市街に慣らさせることを目的にしていたようだ。表通りから路地に入ってみたり、アメリカの某映画会社のキャラクターショップに入ってみたりと、中嶋は啓太の行きたい方に行かせてやっていた。路地に入りこんだところで城壁の内側に限られているから、道に迷ったりする心配がないのだ。観光客めあての表通りと違い、ひっそりとした感じの店が見つかるのも、なんだか探検でもしているようでおもしろかった。 「あっ。これってこの街の写真集ですよね」 表通りに戻ったところで、啓太は本屋の店先に足を止めた。ウインドウにはチェスターの写真集がきれいにディスプレイされていた。 「ああ、そうだな。土産に1冊買って帰るか」 「はいっ」 書店は間口が狭く、そう広いようには見えなかったが、天井一杯まで作られた棚に、ハードカバーの本がぎっしり並べられていた。いかにも中嶋が好みそうな書店である。啓太が買おうとしていた写真集はドアを開けてすぐの平台にも積み上げてあった。どうやらこの店の一番の売れ筋らしい。その前で立ち止まった啓太の横をすり抜けて、中嶋は奥へ進んでいった。店番をしているオヤジと一言二言、ことばを交わしながら舐めるように背表紙を眺めている。中嶋が楽しんでいるのを見て取った啓太は、邪魔をしないよう、隣に積んであったサッカーチームの写真集を手に取った。空港で合流してからというもの、中嶋は自分の楽しみらしい楽しみもせず、ただ啓太の相手だけをしてくれていたのだ。せめて好きな本くらい、ゆっくりと選んで欲しかった。立ち読みをしているフリをしてちらっと視線を走らせると、本を見ている中嶋の姿が眼に入る。どんなに時間がかかっても、それだけで啓太は退屈しなかった。 本を数冊選んだ中嶋が写真集と一緒に支払いを済ませる頃には、思ったより時間がたってしまっていた。啓太は退屈こそしていなかったが、やはり少し疲れ始めていた。すでに昼時にもなっている。中嶋は啓太を連れて表通りを斜めに横切ると、通りに面した階段を上がって1軒の店の扉を押した。食欲を誘うスープの香りが彼らを包む。そこはテイクアウトのサンドイッチハウスだった。 「ここのサンドイッチは結構いけるぞ。パンと具を選んで挟んでもらうんだ。ここでスープも買って、コーヒーは別の店で調達しよう」 「ホテルに持って帰るんですか?」 「それもいいが、とっておきの場所があるんだ。少し寒いがいいだろう?」 「はいっ。大丈夫です。えっと……、おすすめは何ですか」 「そうだな……。スモークサーモンもいいし、ゆでタマゴのマヨネーズ和えもいい。ああそうだ。野菜もちゃんと言えよ。どうしても野菜不足になるからな」 こまかく野菜のことなどまで心配する中嶋に『はあい』と返事をしながら、啓太はくすっと笑った。いつもならそれは篠宮の役目だからだ。啓太のあらゆる面に気を配る中嶋は、恋人というよりむしろ保護者のような感じさえした。 サンドイッチを3種類とクラムチャウダーを注文すると、中嶋はコーヒーを買ってくると言い置いて店を出て行ってしまった。コーヒーくらい一緒に買いに行けばいいのに、中嶋はまだ啓太の身体を気遣っているようであった。大事にしてもらっているのはちゃんと分っているのだが、突然、こんな所で取り残されて、啓太はパニックになりかけてしまった。サンドイッチを作っているお姉さんが何かを尋ねてきたりしたら、何と答えたらいいのだろう。カーディフでドラゴンを買ったときのように、レジでお金を渡すだけとは違うのだ。まるで「はじめてのおつかい」状態だが、中嶋から渡された紙幣を汗ばむほどに握り締めた啓太は、お姉さんが下を向いて笑っていることにも気づかずにいた。 お金を払って品物とお釣りもらい、ようやくの思いで外に出た啓太を、ひんやりした空気が包みこんでくれた。火照った頬が冷やされてみると、たかだかサンドイッチ代を支払うのにあんなに緊張した自分が馬鹿みたいに思えてくる。ほうっとため息を吐きながら、回廊の手すりに手をかけて街の中を見回してみると、ラドローやカーディフのような石造りの街とは違う暖かさが、啓太を慰めてくれているようだった。 子供の頃の中嶋はこの街のどこが気に入ったのだろう。もちろん啓太もこの街が好きになりつつあった。だがその理由と子供の頃の中嶋が気に入った理由とは違うものであるはずだ。いろんな理由が啓太の頭の中に次々と浮かんでは消えていった。 啓太は今までにもよく中嶋のことを考えていた。だがそれは大抵「中嶋さん、今、何してるかな」であり、ごくたまに店で何かを見つけたときなどに「中嶋さんってこんなの好きかなあ」と思う程度であった。つまりこんなふうに子供の頃を含めて、中嶋の過去など考えもしなかったのである。親に連れられて啓太のうしろを通っていった男の子と、その頃の中嶋の姿とが重なった。それは啓太にとってとても新鮮で、その子が店に入ってしまうまでずっと目で追っていた。 やがて待つほどもなくコーヒーの入った紙袋を掌にのせた中嶋が帰ってきた。かなり注意して見ていたにもかかわらず、啓太は声をかけられるまで中嶋に気がつかなかった。中嶋は街の風景にすっかり溶けこんでいたのだ。道から啓太を見上げる中嶋の姿に、観光客らしい違和感はどこにもなかった。 「中嶋さんって、前世はチェスターの住人だったんじゃないですか?」 道に下りた啓太が中嶋に近づきながら言った。 「前世だと?」 「そうです。だって全然観光客に見えないですよ。街にしっくり馴染んじゃってます。それに小さい頃からこの街が好きだなんて、ちょっと渋すぎだし。それってやっぱり、前世の記憶によるものなんじゃないですか?」 「前世の記憶、ねぇ……」 鼻で笑うかと思ったが、中嶋はおもしろそうな声を出しただけだった。前世などという啓太の発想のとっぴさに、馬鹿らしさよりおもしろさの方が勝ったのだった。実は中嶋には中嶋なりの、この街が好きになった理由があった。秘密にしていたわけではないが、わざわざ話す必要もないと思っていたのだ。だが啓太が前世などを、たとえ冗談にしろ考えているとしたら話が別である。今夜の寝物語にそのあたりを少し話してやるか。啓太が楽しそうに話す声を聞きながら、中嶋はふっとそんなことを思った。 イーストゲート・クロックに向かって少し歩いた中嶋は、途中で左に折れた。その先に大聖堂があるのは、啓太にももう分っていた。チェスター大聖堂は城壁とよく似た石で造られていて、どっしりとした重厚感がある。先刻通ったときには、啓太が何故か気後れしてしまって、中に入れなかったのだ。中嶋は慣れた足取りで奥の方まで入っていくと、そこの回廊に囲まれた中庭の、噴水が見えるベンチに腰を下ろした。シーズンオフとはいえそれなりに活気のある表通りと違って、ここには程よい落ち着きがあった。早春のまだ少し弱々しいが、それでも冬とは違った煌きをはなつ陽の光が、まるで天からの祝福のように降り注いでいる。啓太はぐるっと周りを見回してから、中嶋の隣に座った。向こうのベンチで犬を連れたおじいさんが居眠りをしていた。少し離れているにもかかわらず、犬はご主人様を守るかのように、啓太たちとおじいさんとの間に座りなおした。 「うわあ。なんだか別世界に来たみたいです」 「ツアー客は、聖堂の中は見てもここまでは来ないからな。本を読むにはちょうどいいんだ」 手にしていた袋からカップを出しながら中嶋が言った。それは日本でもおなじみの店のコーヒーだった。今まで中嶋がそこを利用したのを啓太は見たことがない。そんな店でも英国内ではまだまともなコーヒーを飲ませてくれる部類に入るのだろう。蓋を開けると、コーヒーの香りがふわっと漂った。立ち上った湯気で、一瞬、中嶋の眼鏡が曇った。 啓太はスープの袋に入っていたクラッカーを砕いて、クラムチャウダーの中に入れた。店で注文したときに中嶋から教えてもらっていたのだ。それをスプーンでかき混ぜながら口に運んでいると、コーヒーを手にした中嶋が、まっすぐ前を見たまま語りかけた。 「おまえ、いつも俺のうしろを歩いているだろう」 「……はい?」 突然そんなことを言われて啓太は戸惑ってしまった。中嶋が何を言いたいのか、まるで見当がつかなかったのだ。だがここ数日のように肩や腰を抱いてもらっていない限り、中嶋の右斜めうしろを歩いているのも事実だった。啓太はいつもその位置から中嶋の顔を見ながら歩いていた。そして、ときどき中嶋が振り向いて自分を探してくれるのを待っていた。 コーヒーでくちびるを湿らせた中嶋が、やはり前を見たままつづけた。 「俺の背中は丹羽に預けてある。だからもう、おまえはうしろを歩かなくていい」 「…………はい……?」 「おまえの居場所は俺の隣だ。歩くときも隣を歩け。俺の足が速すぎるのなら遠慮なくそう言えばいい。俺は立ち止まることのできない男だが、歩調を緩めることはできる」 「……」 「それが『一緒に歩く』ということだろう?」 「はい……」 それが文字通りの『歩行』を意味しているのではないことくらい、啓太にもわかった。中嶋はこれからふたりで暮らすということを語っているのだ。顔から血が引いていくのを啓太は感じていた。「今すぐ別れてくれ」と言われた方が、まだ落ち着いていられたかもしれない。中嶋の一言は、そのくらい啓太に衝撃を与えたのだった。しかしそれは、なんと甘く、そして心に響く衝撃なのだろうか。 車のキィを預けてくれた丹羽と篠宮の背中に、啓太は中嶋と一緒に歩いていくと誓った。だがそれは啓太ひとりの決意に過ぎなかった。中嶋は今、自分も一緒に歩いていってくれると言っているのだ。そしてそれを言うために、啓太をこの大聖堂に連れてきたのに違いなかった。 「わかったな」 「……はい」 その返事を聞いてようやく啓太の方を向いた中嶋と、啓太はそっとくちびるを触れあわせた。ふたりの間に置かれたカップやサンドイッチが邪魔で、それ以上、近寄ることも抱きつくこともできなかった。そればかりか、中嶋はコーヒーを手にしていたし、啓太はチャウダーとスプーンを持ったままだった。手を握り合うことさえできずに交わした誓いのキスはコーヒーの味がした。 英国に来て以来、どれほど幸せな思いをしたことだろう。こんな幸せはないと何度も思った。それなのにまたこうして幸せが積み上がっていく。中嶋がくれる幸せには際限がないようだった。 「中嶋さん……。俺、……」 なんとか気持ちを伝えようとしたがそこまでだった。もうどうしてもことばにはならなかった。 「ああ。わかっている」 ―― わかってなんか、ない。わかってないよ。中嶋さん。 中嶋のことばに啓太はそう思った。何故なら啓太は中嶋が想っている百億倍も幸せなのだから。自分がどれほど幸せにしてもらっているか、中嶋に伝えられない自分が、啓太にはとてももどかしかった。 夜になって、啓太は中嶋に買ってもらった写真集の見返しに、今日の日付と買った店の名前と住所も書きこんだ。それはお土産と言うより今日の記念品だった。その本を開くたび、啓太は簡単にこの日に戻れるだろう。そしてそのたびに幸せな気持ちがまたひとつ、積み上げられるのだった。 |
父さん。母さん。朋子へ カーディフを出た俺たちは、イングランドとウェールズの国境にある チェスターという古い街にやってきました。白い壁に黒い木の柱が きれいな家が多くて、ぜんぜんイギリスじゃないみたいです。 俺と中嶋さんはここでのんびりと休日を楽しんでいます。 明日はドライブに連れて行ってくれるそうです。 どこに行くのか、今からとても楽しみです。 啓太 |
いずみんから一言。 ……何これ。「次回は観光編です」とか言っておきながら、全然観光してないぞ(汗) 一応、ふたりが通ったコースは考えたんですけど。ってただの言い訳か(滝汗) このあと一度ホテルに戻って休憩した啓太くんは、中嶋氏に「一人歩きしてみろ」 と言われて旧市街に戻り、和希のお土産の毛糸や、自分用に某映画会社のキャラの ついたポロなんぞを買ったりします。ウサギのキャラなんですがお分かりでしょうか? 最近ではこの店にポケ○ングッズも並んでいるらしいです。 それからふたりで運河を跨ぐようにして建っている別のホテルに行って、中の ショッピングアーケードを見て回ります。 運河めぐりの船はまだ営業シーズンじゃないので乗れませんでした。 以上、啓太くんのこのあと、でした。 |