漂う人彷徨う人



6)本当の名前


「・・・・・そうだね。僕はケイタじゃない。」
「お願いだ。啓太を返してくれ。啓太を・・。」
 大切なんだ。俺の一番大切な人なんだ・・・。
「どうしてそんな目で僕を見るの?さっきまであんなに優しくしてくれてたじゃないか。どうして?和希。」
「だって、だって・・。」
「啓太がそんなに大切?どこが違うの?和希気がつかなかったじゃないか、僕をケイタって呼んで、約束してくれたじゃないか。」
 約束?・・・それはなに?
「約束したよね?和希。その時が来たら一緒に飛んでくれるって。約束したよね?ねえ和希、約束は絶対だよ。」
 約束した・・・確かに俺は・・・啓太と・・。
「違う、あれは啓太と。」
「ケイタとしたのかもしれない。だけど僕だよ。約束した相手は僕だ。和希は僕に誓ったんだ。その時が来たら一緒に飛んでくれるって。」
 誓った。確かに俺は啓太が喜ぶならと、何も考えずに誓いを立てた。
「一緒に飛ぼう和希。その時が来たんだ。和希、飛ぼう一緒に。」
「あ、危ない!!」
「くすくす。こうするともっと遠くまで良く見える。」
 ひらりと手すりの上に立ち、啓太が笑う。
「飛ぼう和希。こうして羽を広げて。青空じゃないけど、和希が一緒だから良いよ。全部欲しいなんてよくばったりしない。」
 両手を広げ、鳥の翼のように腕をはためかせる。
「あぶないよ。啓太、動いちゃ駄目だ。」
「和希が一緒なら、寂しくない。誰も気がついてくれなくても、ずっと闇の中でも、和希が一緒なら、
僕は・・・。」
 啓太の顔が変わる。アルカイックスマイル。その顔からは感情が何も読めない。
「啓太!」
 泣いているようにも、笑っているようにも見える。
 そんな場合じゃないのに、俺はその顔に見とれていた。
 美しい彫像のような顔。啓太とは違う、啓太の顔・・。
「飛んでくれるよね?和希。約束したよね?僕たち指切りしたよね?」
「約束、約束なんて・・・。」
 啓太の声に我に変えった。確かに指切りした。だけど。
「僕がケイタじゃないから?だから約束を破るの?嘘つくの?」
「・・・・。」
「ケイタじゃないから?僕が違うから?」
「ごめん。だけど・・・。」
「どうして皆ケイタがいいの?どうして、どうして僕じゃ駄目なの?
 ケイタはずるいよ。友達に囲まれて、和希が傍に居て、ナカジマさんが大切だって言いながら、いつも皆の中心にいるんだ。そうしていつも笑ってる。
 幸せだから、だからいつだって笑ってる。
 ケイタは知らない。何も知らない。自分がもうすぐ消えてしまうという恐怖を。
 知らないから笑っていられる。明日がある、未来がある、そう思うから笑っていられる。優しくなれる。
 僕には未来なんかなかった。なにも出来なかった。自分のやりたい事も満足に出来ず。夢さえ見られない・・・友達を作ることさえ出来なかった。
 なのにケイタは笑ってるんだ。ケイタはずるい。ずるいよ。」
「・・・。」
「僕はずっと寂しかった。いつもいつも寂しくて一人ぼっち、だから嬉しかった。
 和希が優しくしてくれて、篠宮さんが、皆が優しくしてくれて嬉しかったんだ。
 和希が寂しいなら一緒に飛んでやるって・・そう約束してくれて嬉しかったんだ。」
「・・・・。」
「なのに僕はケイタになれはしない。よく分かったよ。」
「それじゃあ。」
「だからケイタを道連れにする。」
「え?」
「なにを・・。」
「和希が約束を破ったから悪いんだよ。だからケイタを道連れにする。僕はこの空を飛んで、そうしてケイタは地面にまっさかさまに落ちるんだ。
 ぐしゃりとつぶれて、この顔も体もつぶれて・・・・いい気味だ。」
「そんな駄目だよ。」
「和希が悪いんだから、だからケイタは死んじゃうんだよ。和希の大切な人は、和希のせいで死んじゃうんだよ。
 醜くつぶれて、床に落ちた卵みたいに、ぐしゃりとつぶれて死んじゃうんだから。」
 ふわり、啓太の体が宙に浮く。
「やめろ。」
 俺は慌てて手すりを乗り越える。
 残っているのはたった30センチ幅のコンクリートの道。狭い狭い道に立って、空に浮かんだ啓太を見上げる。
「俺が行く。一緒に行くから、だから啓太を助けてくれ。」
 死なせたくない。啓太を死なせるくらいなら、俺が・・・。
「もう遅いよ和希。もう全部が遅い。」
 偽者の啓太が笑う。闇の中、ほの白く啓太の体だけが浮かび上がって、そして・・・。
「やめてくれ!!啓太!」
 叫んでいた。ぎゅっと目を瞑り、叫ぶことしか出来なかった。
「お願いだよ。やめてくれ啓太。そんな事しないでくれ。俺が、俺が行くから、一緒に行くから。」
 大切な啓太を俺の代わりになんてできない。
 自分が今ここで死んだら会社がどうなる?とか自分の立場云々とか今はそんな事かまってられない。
 俺の失敗で啓太を失うなんて事出来るはずが無い。
「啓太やめてくれ。」
「ふふふ。僕はケイタじゃない。だからその名前を呼んでも僕を縛ったり出来ないよ。和希。」
 そういいながらも啓太は、宙に浮かぶのをやめ、そうして再び手すりの上にまっすぐに立ち、腕をはためかせたまま笑った。
 縛る?どういうことだ?本当の名前なら縛れるということなのか?
 そういえば昔話にそんな感じのものがあったきがする。
「ほお?じゃあ本当の名前ならどうだ?」
「中嶋さん?」
 いままで沈黙を保っていた中嶋が突然口をひらいた。
「くすくす、君たちがそれを知っているならね。」
「知っているなら縛れるんだな?」
 思わず中嶋を見つめてしまう。中嶋も同じ事を考えていた?
 啓太を間に挟むように立つ中嶋は、妙な自信さえ感じられた。
 こんな時なのに笑っているのだ。あの、唇の端を少しあげただけの皮肉な笑顔を浮かべているのだ。
「中嶋さん?一体何を?」
 知ってるはずがない。中嶋はさっき帰ってきたばかりなのだ。
「そうだね、名前はもっとも簡単な呪縛の呪文。」
「そしたら啓太を返すと誓うな?」
 タバコに火を付け、そうして紫煙を吐きながら中嶋は啓太を見つめる。
 その瞳は闇の中で猫のように光っていた。獲物を狙う肉食動物の瞳。
 中嶋は何を考えている?勝算はあるのか?
「いいよ。その代わり呼べなければ、啓太の体と和希をもらう。」
「ふん。」
「誓う?」
「ああ。誓おう。鈴菱なんぞどうでもいいが、啓太は返してもらう。」
「な、中嶋さん。」
 そんな賭け・・・勝てる訳が無い。無謀すぎる。
 でも、
「さあ、僕の名前はなに?チャンスは三回。」
「そうだな。」
 中嶋何をする気だ。本当の名前なんて・・・。
「さあ言って。僕の名前はなに。」
「・・・・そうだな。『英明』」
「違うよ。くすくす。さあ、あと二回」
 この人適当に言ってないか?おい!!
「そうか?それじゃあ『ヒデ』」
 やっぱりあてずっぽう!!なんでこんな時にふざけられるんだ!
 しかもなんでよりによって自分の名前なんだよ。
「それも違うよぉ。くすくす。あとチャンスは一回だよ。」
 偽者の啓太は嬉しそうに中嶋を見ている。
「ほおお・・・それは困ったな。」
 全然困った風じゃない。この人本気なんだろうか?
「困ってるの?へええ?ナカジマさんでも困るんだ。」
「でも?啓太?それって・・。」
 啓太は、この偽者は中嶋の何を知っている?
「ケイタはナカジマさんを信じていた。ナカジマさんなら自分の事を絶対分かるって信じてた。
ナカジマさんはケイタの唯一だから、だから分かるって。」
「唯一?」
「そう、ケイタの欲しいものはナカジマさんだけ。ナカジマさんだけしか欲しくない。いらないってさ。
 莫迦みたいだよね?そんな事信じるなんて莫迦みたいだ。そう思わない?和希。」
「莫迦みたい?そうかな?あいつは俺のものだ、そう思ってなんの不思議もないだろう?当然だ。」
 中嶋がククッと喉をならし笑う。
「莫迦みたいだよ。信じるなんて莫迦みたい。」
「でも約束は絶対。そうだな?」
「そうだよ絶対だ。だから最後のチャンスだよナカジマさん。さあ僕の名前はなに?答えられなければケイタの体と和希をもらうよ。」
 くすくすと笑う。偽者の啓太が笑う。
 闇の中に白く浮かび上がる体。鳥の翼のように両腕を伸ばして、そして、そして・・。
「約束は絶対だよ。ナカジマさん。さあ言って。最後のチャンスだよ。」
「約束は絶対だ。さあ『トモキ』啓太の体を返すんだ!!」





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