漂う人彷徨う人



(9)遠い記憶


  二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
  険しく八月の頭上の空に目をみはり
  裾野とほく靡いて波うち
  芒ぼうぼうと人をうづめる
  半ば狂へる妻は草をしいて座し
  わたくしの手に重くもたれて
  泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
  ―――わたしもうぢき駄目になる
  意識を襲う宿命の鬼にさらわれて
  のがれる途無き魂との別離
  その不可抗の予感
  ―――わたしもうぢき駄目になる
  涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
  わたくしは黙って妻の姿に見入る
  意識の境から最後にふり返って
  わたくしに縋る
  この妻をとりもどすすべが今はこの世に無い
  わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
  ?として二人をつつむこの天地と一つになった


                     〜高村光太郎/山麓のふたり〜



 白い白い部屋。なんだ?この風景。
 頭の中に映し出される景色。
 そしてクルリと世界が一転し、俺はその部屋へと移動した。
 部屋の中には沢山の機械、そしてベッドの上に座り、ぼんやりと窓の外を見ている少年。
 知らない、こんな場所。見たこと無い。これは誰の記憶なんだ。
 俺は一体どこへ迷い込んだというのだろう?逢ったこともない少年の部屋。
 白い白い部屋。色の無い、世界。
『トモキ』
 不意に名前を呼ばれ、少年がこちらをむいて、そして微笑んだ。
『お母さん。来てくれたんだねありがとう。』
 笑顔の先に何があるんだ?誰が居るんだ?
 疑問のままに振り向くと、真後ろに少年に良く似た女性が立っていた。
 俺・・・この人たちに見えていないのか?
 二人の視線のちょうど真ん中の位置に俺は立っていた。
 なのに、二人は俺を無視して会話を進めているのだ。
 似た顔の笑顔。すぐに親子と分かる顔で儚く笑う。
 少年の痩せた体。半そでのパジャマからでた細い腕が痛々しい程だった。
『・・・また外を見ていたの?起き上がって大丈夫?』
『うん、今日はとても気分が良いんだ。あのね、お母さん。もうすぐ電車が通る時間なんだよ。』
 窓の外に広がるのは低い山に囲まれた田園風景。そして横に長く伸びていく線路。
 部屋の真ん中・・というよりドアの近くにいるというのに、俺は窓の外の景色がはっきりと見えた。
 どこまでも続く田園風景。その先に見えるのは低い山並み。そして黄金色の田んぼを突っ切るように通った一本の線路。
『今日もいい天気だね。綺麗な空だよ。』
『そうね。』
『あ、電車が来たよ。ほらほら、早いなあ。いいなあ、僕一度で良いから電車に乗ってみたい。』
『トモキ。』
『そして海に行くんだ。電車の窓から海が見えるんだよ。
 テレビで見たことがある。
 トンネルを抜けるとね、目の前に海が広がるんだよ。
 青い青い海を見たいな・・・。
 僕本物の海をまだ見たことがないんだもん。
 あ、それから、地下鉄っていうのも乗ってみたいな。
 ああでも、ギュウギュウに押し込まれて乗るのは嫌だなあ・・。ふふ、満員電車は怖いなあ。』
『トモキ。』
 細い細い腕には点滴の管。口元に添えられたチューブや体から出た何本ものチューブが機械につながれている。
 細い細い腕。痛々しいほど細い腕に刺さる点滴の針。
『でも無理だね・・・お母さん。
 僕はこのベッドからもう出ることは出来ない。あの機械がないと呼吸さえ出来ないんだもん。』
『トモキ。』
『ふふ、残念だったなあ。これが折角届いたのに。』
 枕元の本にはさんだ一枚の封筒をトモキは取り出して見つめた。
『そうね・・・。』
『勉強したのは無駄じゃなかったよね。皆と一緒に卒業できなかったけど、でもこの入学許可証が届いたんだもん。
 無駄じゃなかった。
 ・・・行きたかったなあ、あの制服を着て。寮の生活ってどんなだったんだろう。
 ねえお母さん、どんな生活だったんだろう?
 皆で同じところで暮らすんでしょ?
 ご飯もみんなで一緒に食べるのかな?
 皆でご飯食べるって凄く楽しそう。
 ねえ、お母さん。きっと毎日がとってもとっても楽しいんだろうね。』
 夢見るように、トモキは話し続ける。封筒を両手でそっと胸に当て、宝物のようにそっとそっと抱きしめながら、話し続ける。
『行きたかったなあ・・・学校。あの電車に乗ったら学校のある街にも行けるんだね。
 僕の行きたい場所。どこにでも行けるんだね。』
『トモキ・・・ごめんね、もっともっとお母さんが丈夫にトモキを生んであげられたら良かったのに。ごめんねトモキ。お母さんが、お母さんが・・。』
『お母さん。謝らないで。』
『学校にもろくに行けずに・・・こんな、こんな・・・。』
『お母さん泣かないで、ねえ、お母さん約束して?』
『え?』
『もしも僕が死んだら、この封筒と制服を棺の中に入れて欲しいんだ。』
『トモキ。』
『そしたら幽霊になってあの学校の生徒になっちゃうから。
 そしてね友達を作るんだ。僕の初めての友達だよ。一緒に授業を受けて、いろんな事を話すんだ。
 電車に乗って学校へ行くんだ。あの制服を着て乗るから・・・。
 友達が出来たら海にも行くんだよ。皆でね海に行くんだ。
 ふふ、あの制服を着て、僕は学校に通うんだよ。友達と一緒に・・・。』
 そう言ってトモキは壁に掛かった制服を見た。
 白い白い部屋の白い白い壁に掛かったそれは、鮮やかな赤い色だった。





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