約束〜もう一度あの場所で〜(31〜36) 2006/04/11(火) 約束〜もう一度あの場所で〜‥31 「え?」 顔が恐い? 予想していなかった中嶋の言葉に、和希は思わず自分の頬に触れながら聞き返した。 今の自分は、そんなに怖い顔をしていたのだろうか?それでケイタは、昨日の続きとばかりに怯えていたのだろうか?−−− なにせここ数年、プライベートで誰かと親しく話すことなど殆ど無かったのだ。作り笑顔か、無表情。それが和希の常の顔だった。 自分の意志など無く、状況に合わせて表情を作っていただけだった。 素の顔など、和希には無かったのだ、日本に帰るまで。 「中嶋さん?顔が恐いってどういう意味ですか?」 「‥あいつはなぁ、仕事しかしらん莫迦なんだ。仕事中ここに皺を寄せて、大声あげてばかりいる。」 中嶋は和希を無視してケイタに向かって話し続けた。 「あのですね?中嶋さん、一体何が‥。」 「だからな?お前があいつの機嫌を気にする必要はない。笑ってる顔が貴重品みたいな男なんだから。」 「失礼なっ!そんな事、よりによってあなたに言われるなんて心外ですっ!!」 「!」 和希が大声をあげたとたん、ケイタはビクリと肩を震わせ中嶋にしがみ付いた。 「ほうら、すぐにこうなるだろ?誰にでもこうなんだよ、こいつは。だからお前が気にする事はないんだ。」 和希に見せ付けるように、ケイタの肩を抱きながら中嶋はククと喉を鳴らした。 「‥。」 否定は出来ないけど。そんな事わざわざケイタに教えなくてもいいじゃないか、ただえさえ怯えてるのに、これ以上悪い印象を与えて欲しくないんだけど。−−−思いながらも文句も言えず、和希はただ中嶋を睨みつけていた。 「本当?俺のこと凄く凄く怒ってるんじゃないの?」 「怒っている人間は普通、花なんか持ってこないぜ?ケイタ。」 丹羽が混乱するケイタに指差して教える。 「え?あの‥俺に?」 「ケイタにプレゼントだとさ。気障な野郎だぜ。」 丹羽の下手糞なウインクにケイタは驚きながら、中嶋に聞いた。 「‥‥俺昨日‥あの‥駄目って言ったから‥だから、和希さん怒って‥。だから、和希さん今日ここに来て、怖い顔ずっと‥。」 「それは俺に聞く事じゃないだろう?あっちに聞くべき事だ。」 ケイタの言葉に、和希はやっとすべてを理解した。 ケイタが怯えていたのは、昨日の事で怒った和希がここにクレームを言いに来たのだと思っていたせいで、中嶋が和希を挑発したのは、和希は簡単に怒る人間なのだ‥とケイタに分かり易く教える為だったのだ。 「ケイタ?」 「あ、あの怒ってますか?やっぱり俺、あの。」 「怒ってなんかいないよ?それに俺の方が、君に嫌な思いをさせてしまっただろ?恐かった?」 「え‥あの。」 「恐いならそう言ってやれ。こいつはな、周りがそう思っていても、誰も指摘しないから気が付かないんだよ。自分の顔がどれだけ恐いか。」 「中嶋さんっ!」 「‥ほらな?すぐこうなる。気が短い男だ。本当に。」 「短気なのは認めますけど‥。」 それをあなたに指摘されるのは、もの凄く理不尽な気がするんですが‥。−−−脱力しながら、それでも必死に眉間の皺を消し、ケイタを見る。 「和希さん本当に怒ってないの?」 ケイタは不安そうに中嶋に問う。 「ああ。」 「良かった。」 安心したように深く息をつくケイタに、中嶋は例の笑顔を嫌味の様に浮かべ、さらに和希に見せ付ける様に、ケイタを抱き寄せ頭を撫でながら言った。 「全く‥子供に気を使わせるなよ。」 「すみません。‥ごめんね?ケイタ。 昨日俺そんなに恐かったかな?」 「あの‥違うんです俺‥」 「ん?なあに?」 まだ少し怯えた様子が残るものの、ケイタがちゃんと和希の顔を見て答えようとしているのが嬉しくて、和希は自然と笑顔になった。 「中嶋さん‥あの、」 「ちゃんと自分で言えるだろう?それともこいつの顔がまだ恐いのか?」 「ううん‥あのね?和希さん、俺大声とか怒鳴られたりとか‥そういうのが凄く凄く苦手で、だから‥。」 「そうなんだ。」 頷きながら思い出す、始めて逢った日も、ケイタは些細な事で動揺して泣きだしたのだ。『客の部屋を間違えたのかもしれない』たったそれだけの事で、取り返しのつかない大きな失敗をしたかのように困惑して、泣きだした。 「これ‥もらってくれる?」 繊細な子なのだ、きっと。それなのに自分は、ケイタの言葉に、怒りを押さえる事もせず、脅してしまった。−−−後悔しながら和希は、ケイタに花束を差し出した。 「いいんですか?」 「勿論。」 和希が笑って頷くと、ケイタは恐る恐る中嶋の腕のから離れ、立ち上がると和希の方へ歩いてきた。 「はい。どうぞ。」 「ありがとうございます。凄く綺麗。」 両手で花束を持ち、香りを吸い込んでそしてケイタが笑った。 「和希さんありがとうございます。嬉しいです。」 「喜んで貰えて嬉しいよ。」 ケイタの笑顔が嬉しかった。 「なんだかなあ。見てるほうが照れるな。ケイタ?それ花瓶に生けて、コーヒー持ってきてくれよ。」 「はい。中嶋さん?花瓶って‥。」 「‥それ全部生けられるような物は無いな。‥いい、一緒に行く。お前にやらせると片付けの方が大変だ。」 「酷いですぅ。俺だって色々出来るようになったんですよ?」 和希の傍を離れ、中嶋と連れ立ってドアの向うに消える。 「中嶋さんて、ああいう人でしたっけ?」 「ケイタにだけはな。極甘だな。まあ、患者にもそれなりに優しいけどな?」 「へえ。」 優しく診察する中嶋‥なんて和希には、想像もつかなかった。 学生時代の中嶋を良く知っているだけに、白衣さえコスプレかなにかの様に見えてしまうのだ。 「‥でも中嶋さんならどんな病院でも勤められるでしょうに‥。」 優秀な男だった。勉強スポーツ、なんでも当たり前の様に出来てしまう。そして努力を惜しまない。 「‥そんなものどうでもいいんだよ。」 「そうなんですか?」 「ああ。」 ◆ ◇ ◆ 2006/04/12(水) 約束〜もう一度あの場所で〜‥32 頷きながら、和希はそれでも‥と心の中で丹羽の言葉を否定した。 日本という国は一見教育、医療、産業など、どの分野においても日本全国一定水準まで達しているように見える。けれど実際はそうではない、特に医療の分野は地域格差なんて可愛いレベルの話ではない。東京の病院で当たり前に受けられる治療が、地方では一部の大学病院や国立病院のみで受けられる特別な診療に変わる。ある治療を受ける為だけに転医し、患者や家族に大きな負担が掛かる事などは、珍しい話でもなんでもないのだ。 そしてその格差は、東京の大手の病院で働く医師と、町医者にも言える事なのだ。ある治療を施せば、簡単に治るものを、設備が整わない等の理由から自分の手を離れ、上のランクの病院に委ねなければならない。それを割り切れる人間ならいいが、和希の知っている中嶋ならそれは望まない筈だった。 向上心とプライドだけは高い人間なのだ、自分の手に余るから‥と他者に助けを求め終わらせる人ではなかった筈だ。 ある程度の腕と実績を持ち、中嶋の様に環境にも恵まれた人間が、それを放棄し一介の町医者で満足しているなんて、和希には理解出来なかった。 「もしも、中嶋さんが今の仕事に満足していないのなら、いくらでも協力できますから‥。」 中嶋はどちらかといえば、和希には苦手なタイプの人間だった。それでも和希の愛する学園の生徒だった事にかわりはなかった。だから、もしも力になれるなら、どんな事でもしてやりたい、そう思うのは和希の中では自然な事だった。 久我沼の脅しに負け、啓太の死の悲しみに負け理事長の座を降りた今でも、和希にとって学園は大切な場所だった。 思うままに勉学に励み、健やかな精神を育む、そして個々の意志と信念で日本という国を導いていける人材を育てる。戦前の偏った教育と思想を憂いた祖父は、それを願って学園を創立した。 その祖父の心を受け継いで、和希は若くして理事長となったのだ。だから、理事長職を離れた今でも学園への思い入れは強かった。 「お前?」 「どちらか希望の場所があれば‥。」 鈴菱は各分野で事業を展開している。その中で一番の事業が医療だった。医薬品、医療用機器。多種に渡って展開している。 日本ではさすがに無いが、某国では、ドアを開け目につくものすべてに鈴菱が携わっている。などというのもそう珍しくはない。 「あのなあ。」 「‥?」 「いや、俺にはお前がそれを善意で言ってるんだって分かるよ。」 丹羽は、ため息を誤魔化すように煙草に火をつけ深く吸った。 「だがな?それはあいつに言って欲しいもんじゃねえ。」 苦しそうに丹羽は言葉を吐いた。 和希の言葉は、善意から出たものだった。純粋な善意。けれど善意は時には無邪気な悪意になる事を和希は知らなかった。 「え?」 「あいつにとって、今が良いとは言えねえのは俺にだって分かるさ。だがな?あいつは自分で今の場所を選んで生きてる。それが思い描いてた未来とは違うもんでもな?あいつはそれを選んだんだよ。 俺だって今の状況に満足してるとは思わねえ。選択が正しいのかどうかも俺には分からねえ。それでもあいつが選んだ道を、お前に否定されるのは御免だ。」 厳しい目で、丹羽は和希に言った。 「王様?」 「あのな?これだけは先に言っておく。お前はケイタの客だ。俺達にとっては今はそれだけなんだ。」 「え?」 「お前がここに来ることさえ、俺にもあいつにも我慢ならねえ事なんだ。しかたねえとは思うけど、それが事実だ。」 丹羽の言葉は重かった。 「わかっています。俺が歓迎されていない事は。」 それでもケイタに逢いたかった。 「わかってねえよ。お前はなちっともわかってねえ。 仕方ねえとは思うよ。人を好きになるって気持ちを止めろなんて俺には言えねえしな。」 宥めるように丹羽は言葉を吐いた。 「お前、ケイタに惚れたんだろ?」 「え‥‥はい。」 丹羽の言葉に和希は素直に頷いた。 惚れた。その言葉と和希の思いはどこか異なる気がしたが、ケイタが自分の大切なものになっている事だけは確かだった。 「本当仕方ねえなあ。いい年して。ケイタ幾つだと思ってんだよ?」 丹羽の口調に悪意は感じられなかった。悪意も侮蔑も感じなかった。 「知りません。」 「だよな。行ってれば高校生だと聞いちゃいるがよ。本当の年は俺も知らねえ。」 「知らないんですか?」 「ああ、誕生日は知ってるよ。7月7日七夕様って奴。」 「7月7日。」 ではやはり違うのだ‥当たり前の事に、和希は悲しくなった。 ケイタの誕生日は5月だった。違う人間なのだから当然だとは思ってみても、そんな簡単な事さえ和希には大きな衝撃だった。 「お前の気持ちは勝手だけどよ。」 「‥。」 「ケイタには負担になるだけだ。あいつにとって、客はただの客だ。それ以上にはならねえよ。」 「そうかもしれません。」 それでも和希は、ケイタの笑顔が嬉しかった。笑ってくれるだけで嬉しかったのだ。 「それでもいいんです。ケイタに逢えれば、あなた達になんて思われようと、それだけで十分なんです。」 俯いて、和希は必死に言葉を絞りだした。 どんなに軽蔑されてもかまわなかった。ケイタの笑顔を感じられるなら、それだけで良かった。 「仕方ねえな。お前。本当どうしようもねえな。」 哀れむような声が、和希の心に深く突き刺さった。 9、逢魔が刻 「中嶋さん?ほうらもうすぐ桜が咲きますよ。」 後ろを歩く中嶋にケイタは笑いながら声を掛けた。 「桜なんぞ興味は無いな。」 言いながら煙草を吹かす中嶋の手元を、ケイタは見つめ手を伸ばす。 「も−、くわえ煙草はいけないんですよ?中嶋さん?」 「そうか?」 「そうですよ。ほら、なんていったっけ?ええと‥条令?‥それでいけなくなったんですよ。だから歩きながら煙草吸っちゃだ−め!!」 言いながらケイタは、中嶋の口元の煙草に手を伸ばす。 ◆ ◇ ◆ 2006/04/13(木) 約束〜もう一度あの場所で〜‥33 「危ないだろ?」 ケイタの手首を掴むと、中嶋はそのまま引きずるように歩きだす。 「だっていけないんですよぉ?」 「らしいな。」 「らしいなじゃなくて。マロンのお散歩の時くらい禁煙しましょう?中嶋さん。健康によくないですぅ−−!!」 ずるずると中嶋に引きずられながら、ケイタは拗ねたように口を尖らせるから、中嶋は肩をすくめて立ち止まると、マロンのリードをケイタの右手に預け、煙草を携帯灰皿にもみ消した。 「これで文句ないだろう?」 「あります。」 「なんだと?」 「左手が淋しいです。」 なんの計算も無く、無邪気に言い放つケイタに脱力しながら、中嶋はケイタの頭をぐしゃぐしゃと撫で、リードを取り返すと足早に歩き始めた。 「そんなもの知らん。」 「え−!」 「え−じゃない。さっさと歩け。」 「‥‥なっかじまさん?」 「帰るぞ‥‥。」 「はぁい。」 しょんぼりと後ろを歩きながら、ケイタは中嶋と会話をしようと言葉を探す。 「中嶋さん? ‥‥怒ってなかったですよね?和希さん、大丈夫ですよね?」 和希が帰った後、ケイタは確かめるように、何度も同じ言葉を繰り返した。 「そうだな‥‥。」 世程和希を怒らせたことが気になっていたんだろう、和希と数時間過ごした後のケイタの顔は少しだけ元気になっていた。 「良かったな。恐くなくなって。」 振り返り中嶋がそう言うから、ケイタはこくりと頷いた。 「‥はい。へへ。」 素直に喜ぶケイタの姿を、中嶋は複雑な思いで見つめていた。 これから先、ケイタが和希と逢わなければならないことを考えれば、和希に対する蟠りが無くなったことは勿論良いことなのだ。だが、それを素直に喜べない理由がありすぎた。 「中嶋さん?」 チョコチョコと中嶋の後ろを付いて歩きながら、ケイタは甘えた声で中嶋を呼ぶ。 「中嶋さぁん?」 「ん‥。」 ケイタの声に生返事を返しながら、中嶋は和希の事を考えていた。 『明日も来ていい?ケイタ。』 ケイタの両手をしっかりと握り締め、和希は子供の様な顔でそう言うと、不安そうにケイタの顔を見つめた。 『え‥あの‥中嶋さん?』 困ったように中嶋を振り替えるケイタに、中嶋はため息をつくしか出来ない。 『お前の権利なんだろう?』 ケイタが嫌だと言っても、本庄から許可が出ている以上阻止することは中嶋には出来なかった。 本庄の許可=ケイタへの命令だった。 『じゃあ、好きにします。 ケイタ?明日はケーキかなにか持ってくるね。甘いもの好きかな?』 中嶋の心中を、察しているのかいないのか、挑戦的な視線を中嶋と丹羽に向けた後、和希はケイタの顔を見つめ、にっこりと笑った。 『え?はい。じゃあ、あの‥お待ちしています。』 戸惑いを隠せず頷くケイタを、和希は満足そうに見つめ、帰っていった。 「本庄の奴、何を考えてる?」 中嶋は本庄の狙いが読めなかった。 分かるのは、和希の状態が、中嶋と丹羽が恐れていた通りだったということだけだ。かつての篠宮と同じ、ケイタを見つめる熱に浮かされた様な瞳が、中嶋の古い記憶を呼び覚ます。 本庄は、一体何がしたいのだろう?本庄の目的が、金では無いという事だけは確かだった。 ケイタを苦しめる、それだけが目的なのだ。 その為だけに、ケイタに和希を近付けた事は分かっていても、それからどうするつもりなのか、なぜ近付けたのか?その理由がどうしても分からなかった。 「中嶋さん‥怒っちゃったの?」 「ん?」 泣きそうな声に中嶋が慌てて振り替えると、ケイタが顔を強張らせ、瞳を潤ませて立ちすくんでいた。 「怒った?なぜ?」 「だって、何回呼んでも返事してくれないし‥さっさと歩いていっちゃうから。」 自分の失態に気が付いて、中嶋は慌てて否定した。 「‥ああ。考え事してたんだ。ケイタを怒ったわけじゃない。」 左手を掴み、引き寄せ歩きながら、ケイタの不安を否定する。 「考え事?」 「ああ。」 「仕事の事?」 「そうだ。」 不安そうに見上げる顔が、中嶋の言葉にやっと緊張をといて笑うと「良かった。」と呟いた。 「全く。俺はそんなに短気じゃないぞ?あの男みたいにな。」 和希が聞いたら怒りだしそうな台詞を吐きながら、中嶋はケイタの歩みに合わせゆっくりと歩く。 「でも、心配だったんです。」 「子供と一緒だな。手を繋がない位で不安になるなんて。」 赤く染まった空を見ながら、ゆっくりと歩く。繁華街から少し離れたこの道は人通りもそう多くはなかった。 「だって‥。」 「ん?なんだ。」 「‥なんでもないです。 お腹空きましたね。今日はクリームシチューがいいなあ。あ、四谷のお店でパンを買って帰りましょうか?」 不安を誤魔化すように話しだすケイタの横顔は、小さな子供の様で、中嶋はケイタの不安を取り払うように、ぎゅっと手を握った。 「お前の手は小さいな。」 中嶋の完全な失敗だった。 昨日の夜の一件で、ケイタの精神はかなり不安定になっていた。 だから、いつもは丹羽と来ているマロンの散歩を中嶋が代わって付いてきたというのに、危うく逆効果になってしまうところだった。 中嶋は自分のミスに内心舌打ちしながら、ケイタの様子を伺った。 ケイタには、苦手なものが沢山あった。 大きな声で怒鳴られる事も、闇の中に一人で居る事も、雷鳴が轟く嵐の日も、夕方の道を一人で歩く事さえも苦手だった。 ある程度元気な時なら、丹羽でも問題ないのだけれど、中嶋でなければ駄目という場合の方が多かった。 そんな時は、中嶋の不在そのものがケイタの不安材料となる。 今のように、ケイタに背中を向け、返事もせずに先を歩いただけで、十分な不安材料となってしまうのだ。 ただでさえ不安になる時間に、ケイタの心を不用意に乱したことを中嶋は後悔していた。 ◆ ◇ ◆ 2006/04/14(金) 約束〜もう一度あの場所で〜‥34 『オレンジ色の空を見るのが恐いんです。空がオレンジ色になって、暗い雲が重なっていくのが恐くて恐くてたまらない。』−−−中嶋に拾われたばかりの頃、ケイタは泣きながらそう中嶋に訴えた。 本庄に拉致されるよりもずっと前、中嶋の後を、鳥の雛の様にどこにでも付いて歩いていた時の事だった。 「中嶋さんの手が大きいんですよぉ。」 「そうか?」 あの時期に比べたら、幾分マシにはなったものの、ケイタは未だに夕焼けを恐がっていた。 散歩をしていて不安になると、中嶋や丹羽の洋服を掴み始め、手を繋ぎたがる。 夕暮れ時は、逢魔が刻、夕闇が魔物を連れてくる時間。夕闇の中、カクレンボすると鬼に連れていかれて二度と家には帰れなくなる。鬼の仲間にされてしまう。そんな昔話をケイタが知る筈は無いのに、ケイタは自分が突然何者かに掠われそうな気がする‥と言うのだ。 「はい。中嶋さんの手はおっきくて、指がなが−くて、綺麗だから好きなんです。だからね手を繋ぐと安心するんです。」 無邪気に言いながら、繋いだ手を振り回す、そんなケイタの仕草は、小さな子供の様だった。 「早く桜が咲かないかなあ。」 「もうすぐだろう。ほら、あの枝、蕾が膨らんで来ている。」 「本当だ‥‥‥。」 「ケイタ?」 桜の木を見上げ、ケイタは小さく呟いた。 「中嶋さん?俺、前にも同じ事したことありました?」 「同じ事?」 「はい。広い場所で、大きな木の下で手を繋いで‥。」 「広い場所?」 首を傾げ中嶋は記憶を探る。けれどそんな事をした記憶はなかった。 「丹羽じゃないのか?」 「そうじゃない気が‥。」 「‥まさか。」 「え?」 「‥昔の記憶なのか?」 「昔?」 今度はケイタが首を傾げてしまう。 「そうだ、昔‥ケイタがここに来る前、俺達と出会う前の‥。もっと思い出した事は?なんでもいい。」 「‥分からない‥今それだけが、前にも同じ事を‥手を繋いで、木を見上げて‥隣に背の高い‥。」 「それから?」 「分からない‥それ以外は何も‥分からない。」 ふるふると首を振り、ケイタは小さく震えだす。 「ケイタ?」 「いやだ‥思い出したくない。」 中嶋の手を握り、ケイタはふるふると首を横に振る。 「嫌。恐い、恐い嫌だ。」 「ケイタ‥落ち着け。もういい、もういいから。」 「中嶋さん恐いよ。思い出したくない。何も、何も!!」 何かから逃れるように、首を振りながら、ケイタは叫び声をあげ、そして。 「嫌。‥嫌−−−−っ!!」 ケイタは意識を失い中嶋の腕のなかに倒れた。 ×××××× 「あれが、ケイタ。」 中嶋に気付かれぬように岡田は、二人から距離を置き、ゆっくりと歩いた。 敬愛する和希が突然言いだした長期休暇の理由を、岡田はちゃんと分かっていた。 どこの馬の骨かも分からない男娼にはまり、無駄な金を費やし、その男娼に逢いたいが為に、長期休暇などと言いだしたのだ。 それが岡田には信じられなかった。 「どこがいいんだ?あんな子供。まだ高校生位じゃないか。あんなもの為に何百万も払ったのか?」 朝一番に和希に呼ばれ、和希に指示されたのは、本庄という男の口座に、金を振込むことだった。 和希にとって、数百万の金額など、悩む額でもなんでもない。それは岡田も熟知していたから、なんの疑問も持たず手配した。 けれど理由を知って、呆れるより腹が立った。大切な主人を惑わした人間。しかも、男娼などという人種に尊敬する主人が懸想するなんて、信じたくなかった。 なのに和希は約束の時間になると、いそいそと準備を始めた。まるで大切な恋人との逢瀬のように、髪型を気にして、着る服を選んだ。そして岡田の運転する車を途中で降りると、両手に一杯の花を買い、それを抱え歩きだしたのだ。 「信じられない。和希様があんなふうになるなんて。」 岡田は、自分の大切なものを汚された気がした。 男娼などという下賎な人間が、和希と同じ空間に居ることさえ許せなかった。 「‥あんな子供が、和希様を誘惑するなんて‥。」 目の前を歩くケイタを睨みながら、岡田は歩いた。 「許せない。和希様の為にも、なんとかしなければ‥きっと石塚さんならそうするに決まってる。 石塚さんなら‥あの子供を排除しようとするに決まっている。」 ぶつぶつと口の中で呟きながら、岡田は邪魔者を排除する方法を見つけようとした。 「石塚さんなら、どうする?どうやって‥。」 仲睦まじく歩く二人。となりを歩く背の高い男、中嶋には隙が無く、不用意に近づくことは出来なかった。 『一人の時を狙えばいいんです。ケイタは、あの子供は客の部屋から帰る時だけは一人なんです。それ以外は、どちらかが必ず傍に居る。』 突然石塚の声が岡田の頭に響いた。 『和希様を守らなければ。大切な私たちの主。』 「守る。私の主。大切な和希様。」 呟きながら、岡田は前にも石塚の声を聞いた気がして、ふいに立ち止まると周りを見渡した。 夕暮れの街角。 繁華街から少し離れた住宅街の遊歩道は、人気もあまり無い。 岡田の近くには誰も居なかった。自分の考えに没頭するあまり、ケイタとの距離も離れてしまっていた。 「石塚さん‥」 その声を岡田は確かに聞いた気がした。帰国する少し前も‥確かに聞いた気がした。 「排除しなければ‥鈴菱の尊い人の傍に相応しくない人間は‥排除しなければ‥。」 ぶつぶつと岡田はその言葉を繰り返した。 その姿を見つめ笑う人間が居ることにも気付かずに、岡田はゆっくりと歩いていた。 ◆ ◇ ◆ 2006/04/15(土) 約束〜もう一度あの場所で〜‥35 10、ミルクティーと黒猫 少し浮かれた足取りで、春の街を和希は歩いていた。 いつもの様に車を途中で降りてお土産を買うと、靖国通りを右に折れて細い路地に入る。左手にはクッキーの箱の入った紙袋を下げ、和希はうきうきと人通りの多い道を歩いていく。 「今日もいい天気だなあ。」 綺麗に晴れた空を見上げながら、和希はケイタの今日のご機嫌はどうだろう?と考えた。 ケイタの家に通いだして数日が経ち、やっとケイタは和希に慣れてきたのか、自分からもぽつぽつと話をするようになってきていた。 「ケイタって大人しいよなあ。まだ緊張しているのかな?」 逢うのは丹羽の事務所、中嶋か丹羽のどちらかが一緒に、なんて約束で昼のデートは始まった。 もっともデートと思っているのは和希のみで、ケイタにとっては、自分を買った客とただ数時間逢っているに過ぎないのだが、そんなことは今の和希には関係なかった。 ケイタの笑顔を見つめ過ごす。それだけで楽しくてたまらなかった。 それに明日は久しぶりに二人きりで逢える。 ケイタが部屋に来てくれる日なのだから、浮かれるなという方が無理だった。 「早くもっと仲良くなれないかな。」 一緒に住んでいるのだから仕方がないのだが、ケイタが中嶋や丹羽に向ける笑顔と、和希に向けるそれは違っていた。 ケイタの笑顔は、見ているだけでとっても幸せな気分になるほど、可愛くて優しい。 けれど中嶋達に向ける笑顔は、少し違う。可愛い優しい‥に加えて、甘えんぼというか甘えているというか、兎に角幸せそうなのだ。それが和希には羨ましくて仕方がなかった。 「ちえっ、俺にも甘えて欲しいんだけどなあ。」 しかも、丹羽だけがいるときは、そんなに気になる事はないのだが、中嶋が傍に居るときは明らかに違う。 『中嶋さん?コーヒー美味しいですか?今日は上手に煎れられたでしょ?』何て言いながら、ふにゃりと笑う顔も、『え−。もうお仕事に戻っちゃうんですかぁ?まだ休憩時間なのに?コーヒーもう一杯飲んでからにしましょうよぉ。ね?』なんて拗ねたように、白衣をつかんで中嶋を上目遣いに見る様子も、目について苛々してしまうのだ。 気になって気になって仕方がなかった。 だいたい、中嶋の恋人は丹羽の筈で、二人はケイタを預かって育てているだけらしいのに、実はケイタが中嶋の恋人なのかと、勘ぐりたくなる程仲睦まじいのだ。 「俺には、もう帰っちゃうの?とは聞いてくれないもんなあ。」 にこりと笑い、送り出されて終わり‥なのだ。 「もう少し一緒にいて‥とか、言ってくれないかなあ‥まだ無理か。気が早いよな。」 逢えるだけでいいと思っていた。たった一度の逢瀬で終わらせる事が出来なくて、強引に逢う約束を取り付けた。昼間逢えるようになったのは、本庄の気紛れからだが、ケイタに毎日逢えることが嬉しくて、中嶋や丹羽の冷たい視線にもめげず、ケイタへのプレゼントを抱え、デート気分で通っているのだった。 「まだ何も知らないのになあ。」 それなのにどんどん好きになっていく。まだ何も知らないのに。 甘いものが大好きで、ちょっと怖がり、誕生日は7月7日。黒猫のクロとマロンと仲良しで、マロンの散歩が毎日の日課。 知っていることはそれくらいだった。ケイタの保護者達は、話をはぐらかすのが上手で、和希が何かケイタに聞こうとしても巧く話を変えられてしまう。 仕事の事も、本庄の事も、本当の家族の事も、それに繋がりそうなすべての話は丹羽と中嶋にすべて話題を変えられ、あたりさわりの無いものになってしまうのだ。 ケイタの事を詮索しない約束だった。けれど気になってしまう。それはケイタへの愛情からだった。 「‥‥どうしたらいいんだろう。どんどんはまっていく。」 誰かを愛しいと思う日が来るなんて思っていなかった。啓太を亡くして和希のすべてが闇の中に沈んだ筈だったのに、なのに今、別の人間を好きだと思う自分が不思議だった。 「啓太の代わりなのか? 同じ名前だというだけの別人を思うことで、俺は自分を誤魔化そうとしているのか?」 ケイタが似ているから、代わりとして好きになったのか、それともケイタだから好きになったのか、それが分からなかった。 なぜこんなにケイタに魅かれるのか、その答えを見つけられないまま、時間だけが進み、ケイタへの思いが募っていく。 自分の思いに理由を付けられぬまま、和希は歩みを止め空を見上げた。 迷子になって途方にくれた子供の様に空を見上げ、流れる雲をただ見つめていた。 「啓太。俺は‥。」 ×××××× 「いい天気だなあ。」 ビルの屋上で、ケイタは空を見上げていた。 小さなトレイにミルクティーの入ったポットとマグカップとチョコレートを乗せて、クロとマロンと陽なたぼっこをしていた。 青い空、白い雲。 春の空は優しい色をしているとケイタは思う。 ケイタは外が好きだった。中嶋と丹羽の二人が忙しい時、いつもケイタは邪魔にならないように屋上に昇って空を見ていた。 昼だろうと夜だろうと、一人になるのは苦手だった、心が騒ついて不安になるのだ。 安全な場所に居るのに、一人だということがケイタに恐怖を与えてしまう。 たったそれだけの事も我慢できない自分が嫌で、ケイタは部屋に居ることが苦痛になると、マロンとクロを連れて屋上に昇る。 晴れた空は、暖かい太陽はケイタの縮んで堅くなった心を優しく解してくれるのだ。 暖かい太陽の光は、中嶋の腕の中に居る様で、ケイタは陽の光の下でなら、なんとか一人で居られるのだ。 ◆ ◇ ◆ 2006/04/16(日) 約束〜もう一度あの場所で〜‥36 「もうすぐ和希さんが来る時間かな? クロ、今日は和希さんにフーッ!!ってしたり爪たてたりしちゃ駄目だぞ?」 膝の上に丸まりながら、横目でちらりとケイタを見た後、『やだね』とばかりにクロはそっぽを向いた。 「クロ?」 「にゃ−ん。」 「嫌なの?和希さんの事嫌い?」 「にゃ。」 タイミング良く鳴きながら、クロはケイタの指先ををペロリと舐めた。 「なんで和希さんの事嫌うの? 駄目だよ、和希さんは大事なお客さまなんだから。仲良くしてよ?」 最近のケイタの一番の悩みは、クロとマロンの事だった。 和希が家に来るたび、ケイタは二匹を和希の傍に行かせようとするのだが、クロは和希に爪をたてて暴れるし、マロンはウーッと唸って和希に決して近づこうとしないのだ。 おまけに、それを見ても中嶋も丹羽も何も言わないから、二匹はますます調子に乗って、仕舞には二匹揃って和希を威嚇し始めてしまう。 「どうして嫌いなの?和希さん優しいだろ? 俺が大声出されたりするのが苦手って知ってからは、いつも優しく話してくれるんだよ。」 「にゃ。」 「にゃ、じゃ分からないよお! も−今度海野先生のところにクロも連れていこうかな。そしたら通訳してくれるよね。よし、き−めた。」 ケイタが通院している病院の医師、海野は『猫と話が出来る』と中嶋に聞いてから、ケイタは何度かトノサマとのおしゃべりに協力して貰っていた。 「トノサマと海野先生に協力してもらおっと。 絶対に和希さんと仲良くなってもらうからね?クロ。」 「にゃっ!」 「なんで嫌がるんだよお!も−! ‥和希さん優しいんだよ?本当に優しいよ?俺が最初に泣いちゃったとき、ホットミルクくれてさ‥。クロ?聞いてるの?」 和希の話など聞きたくないぞ!!とばかりに「にゃ−」と低く鳴いたきり、クロは目を瞑って返事をしなくなってしまった。 「もお。」 眠ってしまったクロにため息をつくと、ケイタはカップにミルクティーを注いでコクリと飲み込んだ。 「優しいよ、和希さん。」 どうしてか、最近和希の事ばかり考えていた。 毎日和希と逢うからなのかもしれない‥と思いながらも、何か違う気がして落ち着かない。 「今日は何を話そう。今日こそ沢山話さなきゃ。」 和希との会話は実はちょっと苦痛だった。 他の客の様に、自分からどんどん話してくれれば、ケイタは相づちを打つだけでいいから楽なのだが、和希の場合、ケイタが話すのをじっと待っていたりする事があるので困るのだ。 話すことが無い訳では無く、ケイタを見つめる視線がケイタを困惑させるのだった。 話をする間ずっと‥というよりも、部屋に来てから帰るまで、ずっと和希はケイタを見つめ続ける。 睨むのではなく、優しい目でケイタだけを見つめる。 中嶋の事も丹羽の事も、勿論クロやマロンの事さえ無視して、ひたすらケイタだけを見つめ続ける。 その事に気が付いてから、ケイタは和希の顔をまともに見ることが出来なくなってしまった。 和希の顔を見るたび視線が合うのが、何だか恥ずかしくて、その度に和希に微笑まれてしまうのが照れ臭くて、ケイタは視線を外して中嶋や丹羽ばかりを見てしまう。 大事なお客様なのだから、ケイタに逢う為に来てくれているのだから、ちゃんと接待しないといけないとは分かっていても、中嶋や丹羽に向かって話してしまうのだ。 おまけに、それに拍車をかけるように、中嶋達がケイタの注意を、自分達の方に向けてしまう。 和希の視線に耐え切れなくなったケイタが、二人とばかり話をしていても気にする様子も無く。和希を会話に参加させようという気は更になく、逆に和希を無視して二人でケイタを甘やかし始めてしまい、仕舞には二人に甘やかされているケイタと、それを見つめる和希‥などというものが出来上がってしまうのだった。 鈍いケイタは、和希との会話が途切れてしまうのは、すべて自分のせいだと思っていたのだけれど、半分以上中嶋と丹羽の、強力な妨害のせいだった。 「今日こそはちゃんと話をしよう。今日は王様がいないから、がんばらなきゃ。」 ケイタにとって、中嶋に甘やかされる事は、当たり前の事で、中嶋に髪を撫でられれば、自然に体は中嶋に寄り添い、うっとりと中嶋を見上げてしまう。それは、条件反射と言ってもいい行動だった。 だから和希との会話に困り、視線に照れるとケイタは中嶋を頼ってしまい、結果として和希を不機嫌にする程中嶋に甘やかされてしまうのだ。 中嶋に拾われてからずっとそうやってきたのだから、仕方がないのだが、それを和希に説明するわけにもいかないし、そういう雰囲気になってしまう原因がそもそも和希なのだから、話す訳にはいかない。 中嶋達がケイタの性格と行動パターンを読み切っていて、あえてそうしているのだとは想像もせずに、ケイタはひたすら悩んでいるのだった。 「和希さんが折角毎日来てくれてるのに、退屈させたら申し訳ないし、中嶋さん達にも気を使わせたら悪いし‥やっぱり頑張ろう。 ‥はあ‥でもさ和希さんにだってちょっとは和希さんにだって責任あるんだよ。 あんなに俺のことばっかり見るから。だから、なんか照れちゃうんだよ‥話せなくなっちゃうんだよぉ。もお‥。」 仕事柄、見られることにケイタは慣れている筈なのに、和希の視線はなぜか気になってしまう。 |
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いずみんから一言 |
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