もういちど、この腕に 第 12 回 |
「…………っ!!」 胸を締め付けられるような苦しさに襲われて、啓太は意識を取り戻した。眼を開けるより先にむっとした青い草の匂いが鼻腔を満たす。足を滑らせたときのまま、草の上に横になっていたのだった。 眼を開けることさえ億劫で啓太はそのまま動かずにいた。風の通り道になっているのか、多少生暖かくはあったものの、風が頬を撫でていく。啓太は無意識に風のくる方に顔を向けた。角度が変わった所為か、何かの葉先が額に触れた。風に揺れるそれは、まるで情事のあとの中嶋の指のように、そっと啓太を撫でつづけた。 ―― 中嶋さん。来てくれたんだ……。 安心できる心地よさの中で、啓太は再び意識を手放した。 「どうした!」 西園寺ともあろう者が事ここに及んでのんびりと経過報告などしてくるはずがない。携帯を開くわずかな時間ももどかしく、和希は噛み付くように声をあげた。 「先刻、送ってきたデータに、田中の関係先と一致する住所があった」 「何だって!?」 「今は引っ越してそこにはいないが、田中の従兄弟が数年前まで住んでいた」 「どの分だ」 和希はモニタに向き直るなり、西園寺の読み上げる住所を検索した。 「……これか……!」 「従兄弟の名前は森崎祐二。現在24歳だ。隣の市の工務店に勤務している。衛星の画像を見てみたが、周囲は山が多い」 「分った。すぐに向かわせる。その周辺で会えるよう、連絡を入れておいてくれないか」 「了解した」 合図をするまでもなく、すでに中嶋は電話を取り上げていた。丹羽と篠宮に連絡して急行の指示を出す。篠宮と成瀬の乗った車はちょうど高速道路に向かっていた。中嶋とことばを交わす篠宮の声のその向こうに、同乗していた刑事がセットしたのだろうサイレンの音がかぶさった。 「俺たちも出るぞ!」 電話をたたんだ和希が言った。ここまで分ったのなら、情報の収集も次の指示も車の中ですればいい。山が多いというのは最悪の場合を予想してしまいがちになるが、今はそんなことを考えていてはいけない。中嶋のことばではないが、骨になっていようと灰になっていようと、啓太を連れ帰るのにかわりはないのだ。 ソファの背にかけてあった上着を引っつかんで和希が玄関に走った。マックスのリードを取った中嶋がすぐあとを追う。靴を履きながら中嶋が振り返った。 「岩井!」 「早く行け。あとはまかせろ」 「すまん!」 「岩井さん、あとをお願いします!」 一足先に出たのか、丹羽警視の部下の姿は見えなかった。 第8会議室の隅の机で、邪魔にならないようにしながらも西園寺たちの作業の進み具合を見ながら、翌日以降の和希のスケジュールを調整していた石塚の動きが、急に慌しいものになった。あちこちに電話をしていたかと思うとパソコンのキィボードを叩きつけるように操作する。そしていくつかの書類をアタッシュケースに放りこみ、上着のボタンをはめて出て行こうとしたところで、その様子を窺っていた本条が声をかけた。 「石塚さん。もしかして今から現地に飛びますか?」 「はい。何かありましたら岡田が……」 「いえ、そうじゃなくて」 遮られて一瞬、不思議そうな顔を見せた石塚に、本条は悪戯っぽく、だが真剣な表情を返した。 「僕も連れて行ってください」 「……はい?」 「僕がここにいて役に立てることは、もうほとんどないですよ。それよりも僕は啓太くん捜索に加わりたい。草の根を分けて、啓太くんを捜してあげたいんだ」 出社してくるなり上司に言われて何も知らずに第8会議室にやってきた本条だった。あれから約6時間。本条の果たした役割は本当に大きなものだった。結末を自分の目で見届けたいと願うなら、その権利は十分にあった。 「今日中には終わらないかもしれません」 「かまわない。何だったら休暇届を出して行きます」 「……分りました。業務第3課にはこちらから連絡を入れておきます」 「ありがとうございます」 本条がほっとしたような顔を見せた。単に現地に行くだけならこの場から車を飛ばせばいい。つい先刻まで、本条自身もそうするつもりで西園寺たちに話していた。だがそれでは余計な時間がかかってしまい、捜索に加われない恐れがあった。ヘリで飛べるのならそれにこしたことはない。 「急いでください。あと5分で離陸します」 慌てて石塚のあとを追う本条を、西園寺も七条も温かい眼で見送った。 被疑者確保。 この第一報に捜査本部が色めきたった、そのわずか十数分後。今度はメガトン級の爆弾が落とされた。被疑者のふたりは久我沼から受け取った高校生を海外に売り飛ばしたのではなく、じつは山の中に置き去りにしてきたと供述したというのだ。 海外への人身売買と山中への置き去り。それはあまりに違いすぎたので、にわかには信じられなかった。少しでも罪を軽くしようと、いいかげんなことを言っている可能性はないのか、喧喧囂囂の議論が交わされた。今しなければならないのはこんな会議ではなく、集中的に情報を得ることのはずなのだが。 こんなときに何を言っても誰の耳にも届かない。議論が一通り出尽くすのを待って、丹羽警視が発言を求めた。 「まだ不確定ではありますが」 そう断わった丹羽警視は、近見たちが使ったレンタカー会社を見つけて以降の経緯を簡単に報告した。分っていないことの方が多く、報告するにはまだ少し早いと思っていたのだが、くだらない会議に時間を使われるよりははるかにましだった。 「以上。空振りの可能性はもちろん捨てきれませんが、関係各方面への協力要請はすんでおります」 冷静になって考え直すまでもないことだった。被害者が日本にいてくれさえすれば捜しようはいくらでもあるのだ。日本中の全警官を総動員し、文字通りしらみつぶしに捜すことだってできるではないか。捜査本部で会議をしていた指揮官たちは、各国への捜査依頼は一応そのままにしておいて、近見たちの供述があがってくるのを祈るような思いで待つことになった。 下に下りてみると、やはり丹羽警視の部下は車に乗っていて、すでにエンジンもかかっていた。報告中なのか電話で何かを話していたが、犬を連れた中嶋が後部座席に乗り、和希が助手席に乗り込んだのをみると、尚も話しながらゆっくりと車を発進させた。 「すみませんね。今のは見なかったことにしてやってください」 国道に出るまでに携帯電話をたたんだ丹羽警視の部下が、申し訳なさそうに首をすくめた。刑事が道路交通法を無視していたのだから、一言つけくわえずにいられなかったのだろう。中嶋も和希もそんなことなど気にも止めていなかったのであるが。 「でもおかげで、いい情報をお伝えできますよ」 『いい情報』ということばに、運転席のうしろにいた中嶋が思わず身を乗り出す。その様子を眼の端で見ながら、和希が「いい情報、ですか?」と聞いた。 「例の二人組ですが、薬とスタンガンで眠らせた啓太くんを、山の中に置き去りにしてきたそうです」 眠った状態で置き去りにした。つまりは啓太を殺していない、ということになる。うまくいけば怪我らしい怪我さえしていないかもしれない。車内の緊張が少しばかりほぐれた。 人間ひとり殺そうとすると、かなりの気力が必要である。急所の分っていない素人が手を下す場合には体力だって必要となる。傷つけるのは簡単でも、殺そうと思って実際に殺してしまうのは意外と難しいのだ。凶悪犯罪の低年齢化が社会的な懸念事項となっているが、それでも人を殺してしまう最大の直接要因は「はずみ」なのである。丹羽警視や寺田刑事など警察関係者は、ひそかにそれを恐れていたのだが、今回ばかりは近見と田中の、何をする根性もない情けない性格が幸いした。意識のない、とても重くなった人間を運んでいける程度の山の中だ。啓太を生きて見つけてやれる可能性がぐっと高くなった。 近見紀親と田中昌一に対する取調べは容赦がなかった。聞き出さなければならないすべてのことを後回しにして、ただ啓太の行方だけを問い詰めるそれは、連行途中のパトカーの中からすでに始まっていた。3Pを売りにしているというソープで自称・女子大生をふたり相手にしていた近見には、文字通り天国から地獄に突き落とされたようなものだったのだろう。抵抗を見せるどころか最初から泣きが入っていた。 「おっ、俺……。マジわかんないっすよぉ」 「わからんわけがないだろう。田中が免停中なのは割れてるんだ! きさまが転がしたんだろっ? レンタカーをよぉ!」 「だから俺は言われたとおりに転がしただけなんですよぉ。山へ行ったってことくらいしかわかんないんすよぉ」 「山だとぉっ! どこの山だっ!」 「そんなのわかんねえっすよ。ナビだってアニキがセットしたんだ。アニキに聞いてくれよぉ」 だが田中の供述も取りとめのないものだった。啓太を山へ連れて行ったことは認めたが、それがどこの山か特定できるものではなかったのだ。 「あさって山から入って、砦山に抜けたところ」 「あさって山だあ? ふざけたことを言うんじゃない!」 「ふざけてなんかいるもんかよ! 知らねえくせにっ! 疑うんなら県警に聞けよっ!」 だが県警に問い合わせても、県庁や林野庁、果ては住宅地図で有名な地図会社や山岳関係の出版社にまで問い合わせてみても 『 あさって山 』 にも 『 砦山 』 にも該当する山は特定できなかった。 普段は気にすることさえないが、名前のついている山は全体のごく一部でしかない。航空機が墜落したことで有名になった某山も、実は名前がないのは不便だということで、急遽つけられた名前だったりするのだ。田中が言っているのはその名もない山に子供たちが勝手につけた名前なのだった。知っている人がいるとすれば、それは近隣の住民に限られていた。 取調室の外では別の刑事たちが、案内させるために田中を群馬へ移動できるか、捜査本部にお伺いをたてようと検討をはじめていた。 中嶋のマンションからだと、普通に運転してもわずか10分少々で高速道路に乗ることができる。派手にサイレンを鳴らした車はほぼそれと同じくらいの時間で最寄のサービスエリアにすべりこんだ。平日の昼間のサービスエリアである。だだっ広い大型バス用の駐車場にバスの影はなく、かわりにドクターヘリが待機していた。 ドクターや機長との挨拶も後回しにし、和希と中嶋がヘリに乗り込む。機外に出ていた刑事らしい男とことばを交わしていた丹羽警視の部下も、トランクに入れてあった荷物を担ぐと、最後にヘリに乗り込んできた。 「犬は大丈夫ですかね」 「分りません。多分大丈夫だとは思いますが」 お座りをしたマックスは中嶋の両膝で挟まれて前肢を踏ん張っていた。本当は他に方法があるのかもしれない。だが突然の珍客に対して準備などがあるはずもなく、マックスには耐えさせるしかなかった。 そうするうちにも離陸の準備は終了する。うるさいくらいにローターが回転しはじめ、やがてヘリはふわりと浮いた。横向きに座っている所為もあって、飛行機と比べるとやはり乗り心地はかなり悪い。車の回送要員だったのか、刑事らしい男は地上に残り、右手で目の上にひさしを作りながら、遠ざかっていくヘリを見送っていた。 これは救急車かと思うくらい荒っぽい運転だった。1秒でも早く目的地に着くために中にいる人間は二の次、三の次となる。後部座席でシートベルトをしていなかった篠宮と成瀬のふたりは身体を支えきれず、数分もしないうちにシートベルトに手を伸ばしていた。舌を噛みそうなので話もできなかった。 後部座席のふたりには眼をやる余裕さえなかっただろうが、速度計はコンスタントに200キロを維持していた。これでは乗り心地など悪くてもあたりまえだった。何しろ中嶋たちが乗ったヘリの平均速度が250キロ程度なのだ。地面から離れられない自動車など推して知るべしだ。 それでも篠宮と成瀬は、心の内でさえ愚痴をこぼしたりなどしなかった。考えているのは早く啓太を見つけてやりたい。ただそれでけだある。そのためなら乗り心地くらいどんなに悪くてもかまわないと思うのは、啓太捜索に携わっている人間に共通の思いだった。 だがそのおかげで思ったより早く目的地に入ることができた。篠宮も成瀬も一流のスポーツマンだったので気取らせもしなかったが、車を降りてしばらくは頭がふらついていたし膝も笑っていた。待機していた位置の都合でまだ現れていないが、丹羽と滝のふたりもおそらくは同じような状態なのに違いない。 田中の従兄弟という人物が指定してきたのはそこから少し離れた喫茶店だった。店内はがらがらで、隅の席に男がひとりいるだけだ。ネクタイを締めた上から、グレーなのかベージュなのかよく分らない色合いのジャンパーを着た男は、篠宮たちの姿を見ると立ち上がった。田中の従兄弟の森崎だった。 約束の時間よりかなり早かったにもかかわらず、すでに喫茶店に来てくれていた森崎に、篠宮はまず足を運んでくれたことへの謝意を述べた。従兄弟のしでかした事件の大きさに驚いた彼は西園寺からの電話を切るなり社長に休みをもらい、ここに来て待っていたのだと言った。 「捜査本部の西園寺さんとおっしゃる方から、ある程度のお話は伺いました。昌一とはここ数年、顔を合わせていませんが……。ほんとに高校生を拉致したんですか?」 「彼が拉致したわけではありません。正確には、拉致した相手からその子を海外に売り飛ばすという約束で手数料を取り……」 「どこかに捨てた。それがこのあたりらしい。……ってことですか」 「残念ながら」 ああ……、とため息をついた森崎は、文字通り両手で頭を抱えてしまった。 「余計に悪いじゃないか。最悪……、ってか、サイテーだよ。そんなの……。これ以上おばちゃん悲しませてどうするつもりだよ……」 気は急いていたが、篠宮も成瀬も、今は先を促すことさえできなかった。 ナビの履歴に田中の関係先があったとの連絡を受け、狭いレンタカーの中は一気にテンションが上がった。自分たちのしてきたことが、拉致された高校生を助ける重大な手がかりになるかもしれないのだ。とくに自社の車が犯罪に使われたと知って悔しく思っている花田営業所長の喜びは大きかった。押せ押せムードの中で、メーカーから派遣されてきたシステム・エンジニアがその住所を中心に検索をかけた。 「住所……での履歴はないですね……」 花田が思わず落胆のため息を洩らした。舞い上がった分だけ落胆も大きかったのだろう。だが寺田は励ますように言った。 「いや。周囲は山だらけみたいなんですよ」 「ああ。じゃあ住所は残ってないかもしれませんね。そこの近所でしょうかね」 「近所とは限らないかもしれませんけど、1時間も2時間も離れてないと思いますよ」 「了解しました」 目的地は住所で入力されるとは限らない。カーソルを移動させて、地図上から直接目的地を設定する場合だってある。そういう場合でも履歴に残るはずで、それがないというのは本来、致命的なはずだった。だが住所があるのかないのか分らないような場所で、しかも○○付近とも言えないくらい奥に入りこんでいるとしたら。機械に過ぎないナビはそこをどう表現するのだろう? 「それっぽいところが見つかるように祈っててくださいよ。誘拐されたって子のためにもね」 「もちろん」 そう言って寺田はメジャーどころの西洋の神様に祈り、信心深さなど持ち合わせてもいない花田は何に祈ったらいいのか分らず、子供にせがまれて連れて行った映画にでてきた八百万 の神様に祈った。数が多い分、どれかひとりくらい祈りを聞いてくれるような気がした。 従兄弟の犯した犯罪にことばをなくしてしまった森崎のために、篠宮が冷たいコーヒーを注文した。ホットのコーヒーはすでにテーブルの上にあったが、今は冷たい飲み物で頭を冷やしてもらおうとしたのだ。田舎町の喫茶店では作り置きをしているのか、アイスコーヒーは驚くくらいあっという間に運ばれてきた。勧められるまま、森崎がそこに多目のシロップを入れ、ミルクを注ぐ。ストローでかき回すと氷がからころと涼しげな音を立てた。心を落ち着かせてくれる澄んだ音だった。 「今わかっているのは、貴方が以前、住んでおられた住所が、田中が借りたレンタカーのナビに残っていたということ。そしてもうひとつ。高校生を置き去りにしたのは、あさって山から入って砦山に抜けたところ、だということです」 「あさって山ですって!?」 「県庁、林野庁、県警にも問い合わせましたが、該当する場所が特定できずにいるんです。場所に心当たりはありませんか?」 「心当たりも何も」 飲みかけのアイスコーヒーのグラスを両手で握りしめていた森崎は、ふと気づいたようにそれをテーブルに戻した。 「子供の頃、昌一とふたりで秘密基地を作っていたところですよ。そこから入っていくと、たいして登らないのに、怖いくらい見晴らしのいい場所に出るんです」 「今から案内していただけますか」 「もちろん行きますよ」 「よろしくお願いします」 「有難うございます!」 篠宮も成瀬も、森崎に向かって深々と頭を下げていた。 ずっと意識を失っていたわけではない。痛みというのとは少し違う苦しさに断続的に襲われ、啓太は何度も意識を浮上させはした。だがそれはけっして表にまでは出ず、啓太が眼を開けることはなかった。 だが啓太にも分っていたのだ。このままではいけない。起きて立ち上がらなければならない、と。 そして。今、立たなければ、もう二度と中嶋の腕の中には戻れないのだ、ということも。 それでも立てないことだってあるのだ。身体も意識も啓太の言うことを聞いてはくれない。手も足も頭も何もかもが、まるで重い鉛になってしまったかのように地面に縫い付けられてしまっている。 ―― ごめんなさい中嶋さん。もうちょっと。もうちょっとだけ待って。絶対に立つから。貴方のところに戻るから。だからもうちょっとだけ待って……。 啓太はゆっくり、少しずつ、立ち上がるための何かを集めようとしていた。 |
いずみんから一言。 この森崎氏ほど二転三転したキャラもいないだろう。 人格そのものが完全に変わっただけでなく、体型も服装も変わり、 最後には年齢まで変わった。 変わらなかったのは田中の従兄弟であるということだけだったかも。 ある理由から、第1稿から森崎氏の関係部分を全部削除し、まったく 違うものに書き換えた。 おかげで啓太くんを見つけるところまで書けなくなってしまった。 ごめんよ啓太くん。次回には見つけてあげたいです。 |