もういちど、この腕に

第 13 回




―― 啓太
 名前を呼ばれたような気がして、啓太はうっすらと眼を開けた。驚くくらい近くにいろんな草が生えている。啓太はそれを下から見上げていた。普段あまり見ることもない葉の裏側がやけにリアルな感じがする反面、距離がない所為かとても大きく見えて、それはまるでファンタジーの世界への入り口のようにも見えた。
 その中ほどのところに1匹のカマキリがいた。体長が3センチに満たない生き物は、奥にある世界を守ってでもいるのだろうか、けなげにも小さな鎌を振り上げて招かれざる客を威嚇している。眼は開けたものの、起き上がる気力もないままに見ている啓太には、そんなにまでして護られている葉の向こう側が、素晴しいもののような気がした。
 今の世界はこんなに辛くてしんどくて体がいうことをきいてくれないけれど、向こうに行けば何もかもが良くなるように思えるのだった。
 あっちはどんなところかな……。
 その世界に行ってみたくて、啓太はそっと眼を閉じた。



 適当な場所がなかったというよりは正確な場所が割り出せていなかったために、ヘリは一旦、消防署の屋上にあるヘリポートに着地した。それと前後するように石塚と本条を乗せたヘリが到着し、和希たちは会議室に通された。県警本部長や自衛隊、地元猟友会の代表者が待っているのだという。
 そこに加わらなかった中嶋は犬を連れて下まで降りると、首を撫でてやりながら水を飲ませた。ヘリで飛んだ数10分間は、犬にとって過酷な時間だったと思われたが、マックスはなんとか乗り切ってくれたのだ。犬は犬なりに事態の重さが分っているかのようだった。
 中嶋自身も身体を伸ばしながら周囲を見回してみる。見わたすかぎり、本当にのどかな田舎の風景が広がっていた。場所にもよるのだろうが、眼に入るかぎりではコンクリート製の建造物は他にない。消防署の前は何かよく分らない原っぱのような空き地になっていて、その少し向こうに製材所らしき建物の一部が見えていた。
 あとは山である。高い山から低い山まで、山はいくつも連なっていた。あの山のどこかで啓太が自分を待っている。そう思うといても立ってもいられなかった。一刻も早く山の中に分け入り、啓太の名前を呼んでやりたい。そして見つけて。よくがんばったと言って抱きしめてやりたかった。
「待ってろ、啓太。あとほんの少しだからな」
 中嶋には何故か、その声が啓太に届いているような気がした。
 マックスが元気を取り戻して走りまわりはじめた頃、丹羽と滝の乗った車が合流してきた。この時間で到着するにはかなり無茶な運転をされてきたはずだが、もともとタフな丹羽はもちろん、トライアルで鍛えている滝も涼しい顔で下りてきた。
「うわ! むっちゃ綺麗な犬ですやん。副会長の犬ですか?」
「ああ、そいつな。マックスってんだ。サルなんかよりよっぽど賢いぜ。な?」
 丹羽の差し出した指先をしばらく嗅いでいたマックスは、こいつは安全だと判断したのか、それとも「賢い」ということばに同意したのか、小さい声で「わん」と言った。

 和希たちが到着するまでに、捜査本部の丹羽警視から各方面へ緊急の協力要請が出されていた。それは見事なまでに徹底していて、地元の警察、山岳会、猟友会は言うに及ばず、自衛隊や消防団まで、文字通りの総動員だった。もちろん要請から1時間もたっていないので体勢らしい体勢はまだ何も整っていないのではあるが。順次到着してくる彼らの指揮は丹羽警視の部下に任せることにして、和希はまず寺田が報告してきた場所への移動を決めた。
 そこは田中の従兄弟の森崎が住んでいたという場所から車で数分程度のところで、子供の頃の田中や森崎が秘密基地を作っていたという場所にも近かった。正確な場所は森崎が案内してくれるというので、少しでも近い場所へ移動しておこうとしたのだった。
 合流してきていた丹羽や滝と軽く挨拶を交わし、用意されていた車に足を向けた和希に、すいっと身体を寄せた丹羽が耳元で囁いた。
「親父から伝言だぜ」
「竜也さんが? なんて?」
「さっさと啓太を見つけて会議から解放してくれ、ってさ」
 大掛かりな捜査本部の立ち上げと同時に、うんざりするくらい煩わしくて、そのくせほとんどが無意味という会議が発生してしまった。組織の宿命とも言えるそれらのすべてを、丹羽警視がひとりで引き受けてくれているのだ。おかげで寺田刑事はフリーとなり、捜査に専念できていた。
「了解しました、とことばで伝えるよりは、結果でお知らせしたいですね」
「そうしてくれ。親父のためじゃなく、啓太のためによ」
 和希は表情を引き締めて頷いた。

 田中がナビに残していたポイントよりほんの少し先に適当な空き地があるということで、捜索隊はそこに集結することになった。どぶねずみ色をした機動隊の車両が置かれ、そこに指揮所が設けられた。篠宮に連れられてやってきた森崎は、集まった人数のあまりの多さに、改めて事態の大きさを思い知らされたようだった。
「挨拶はいりません。本題に入りましょう」
「あ? は、はい……っ」
「あなたたちが秘密基地とやらを作っていたのはどこですか?」
 中央にある指揮用のデスク一杯に、衛星画像から起こした周辺の写真が広げられていた。それを前に和希が冷たく言った。挨拶など啓太を探しながらゆっくりすればいい。そう思ってのことだったが、森崎がそう受けとめたかどうかは分らない。はいと返事はしたものの、焦ってただ写真を眺め回すだけの森崎に、猟友会の代表者が助け舟を出した。
「見難いかもしれないが、車のナビに残っていたのがここだ。この先を町の方にずっと戻れば山田のばあちゃんがやってる駄菓子屋に出る。わかるか?」
「ああ……。じゃあえっと……。ここから入って……、こう行くから。えっと……。ここが基地を作ってたところだと思います」
「少しくぼ地になってるとこか?」
「そうです、そうです」
 森崎のすがるような眼に、猟友会の代表者があとを引き取った。写真に定規を当て大雑把にだが四角い枠を作っていく。啓太捜索のための区域分けをしているのだった。
「ここから向こうは?」
 秘密基地を作っていたというくぼ地から向こうが枠に入っていないのを見て和希が尋いた。
「捜索対象になっていないようですが」
「ああ。ここは切り立った崖なんです。写真なんでつながってるように見えますけど。標高で972メートルあります。こっちへ行っている可能性はまずないでしょう」
「なるほど」
 納得したように頷く和希に、代表者は「崖の方は心配しなくていいと思うんですが……」と曇った表情を向けた。
「ただ、このあたりは沢がないんです。山の反対側に行かないと」
「それはつまり、水がないと?」
「そうなんです」
 どんっ! と大きな音がした。中嶋が指揮机を拳で叩きつけたのだった。
「あのふたりは啓太を、水もないところに置き去りにしたというのか!」
 山だからといって必ず沢や滝があるわけではない。そんなものなどない山の方がずっと多い。だが都会育ちの中嶋や和希は、「山に置き去りにされた」と聞いた時点で少し安心してしまっていた。山ならば水もあるだろうし、木の実か何か、口にできるものもあるだろうと思ってしまっていたのだ。山の近くで育った人間が「山に捨てられる」のをどれほど恐れているのかも知らずに。
 それまで沈黙を守っていた中嶋の怒鳴り声に森崎が縮み上がった。中嶋が大声を出したのは気を緩めてしまった自分に腹が立ってのことであり、もとより善意の第三者である森崎が責任を感じることではない。だが中嶋と同じくらい自分に腹を立てている和希に、とりなしのことばをかける余裕はなかった。中嶋を促して立ち上がる。
「その地図は捜索隊の皆さんにコピーして渡してください。あとの指揮はお願いします」
「了解しました。鈴菱さんはどうされますか」
「我々は森崎さんと一緒に田中が歩いたであろう道をたどります」
 まるで死刑判決を受けたかのような表情で、森崎がよろよろと立ち上がった。

 外へ出ると自衛隊の救助班が簡易無線機を配っていた。当然のことながら山の中に携帯電話のアンテナはない。少し奥へ入ればすぐに圏外になってしまうのだ。必需品である無線機を、指揮車から出た和希や中嶋もそれぞれひとつ受け取った。
「ようっ。俺らはどこを探せばいいんだ?」
 出てくるのを待ちかまえていたように、マックスのリードを取っていた丹羽が言った。成瀬や滝も集まってくる。本条と石塚以外の4人は、水や毛布などの救援物資を入れたリュックを背負っていた。啓太を捜す準備は整っているようだ。さらに全員が揃ったところで、石塚が用意していた軍手を配った。その間も足は止めず、歩きながら和希は、指揮机に載っていたのと同じ地図を広げた。
「とりあえず、啓太が置き去りにされた場所へ向かおうと思います。が、細かい指示は中嶋さん。貴方にお願いします」
「俺か……」
「そうです。この中で啓太といちばん絆が深いのが貴方だ。だったら分るはずだ。啓太がどっちへ進んだか。啓太ならどう動くか」
 和希の眼はまっすぐに中嶋を射抜いていた。それくらいのことも分らないようなら、大事な啓太を預けておくわけにはいかない。和希は言外にそう告げているのだった。正面からその視線を受け止めていた中嶋は、数瞬ののち、ほんの少し目を細めると、和希の手から地図を受け取った。
「そうだな。やはり啓太が置き去りにされた場所から始めるのがいいと思う。同じ場所に立てば、あれの考えたことくらい見えてくるだろう」
 異論を挟む者は誰もいなかった。

「ここはしかし、啓太を連れて上がった場所じゃないな」
「ああ。確かに急すぎる」
 田中が車を停めたであろう場所から、さらに奥へ入ること数分。田中や森崎が秘密基地を作るのに山へ入った登り口で和希が言った。崖とまでは言わないが、そこはかなり急な斜面だったのだ。かなり昔に斜面が崩れでもしたのか、手がかり足がかりになるような木の根がいくつも表面に出ていて、子供が登っていくにはいい具合と言えなくもない。だが意識のない人間を担いで登るのはおそらく無理だった。
「ここをさらにまっすぐ行くと、緩やかな傾斜になるんです。たぶん昌一はそっちを通ったんだと思います。でもこっちからの方が砦山へは早く抜けられるんですよ」
「緩やかな方へはここからどのくらいかかる?」
「子供の足で……、15分か20分くらい」
 森崎のことばに中嶋は少し迷った。子供の足でそのくらいなら、大人が急げば10分もかからない。犬を連れていることもあって、メンバーの半数をそっちに向けようかと思ったのだ。だが中嶋はすぐにその考えを捨てた。啓太が下りてきている保証がどこにもない以上、やはり置き捨てられた場所からはじめるのが正当だと考え直したからだった。それに間もなく本格的な捜索隊が投入される。その場所も当然、ルートに入っているのだ。であるならば、一秒でも早く啓太の置かれた場所へ行く方がいい。
「いや。やはりここから上がろう。少しでも早く啓太の跡をたどってやりたい」
「おっしゃー。ほな、まずは俺から」
 中嶋のことばが終わらないうちに、滝が斜面を登っていった。水を2本も背負っているとは思えない身の軽さだった。続いて登った成瀬が、片手で傍の木につかまりながら、もう片手を差し出した。
「遠藤。登っておいでよ。僕が引き上げてあげるから」
「成瀬さん? 確かに急ですが、手を貸してもらうほどじゃないと思いますけど?」
「でもみんな革靴だろ? 上がりにくいんじゃない?」
 にっこりと微笑まれ、引き込まれるように和希は片手を預けていた。見た目と違ってしっかり筋肉のついている成瀬の腕は、軽々と和希の身体を引き上げた。そして篠宮が上がって、成瀬とふたり、マックスを引き上げることになった。どうなるかと思われたが、基本が猟犬のマックスは、少し手伝った程度で意外なくらい簡単に登ることができた。
 
 最初の斜面を登った一行が、案内役の森崎を先頭に歩きはじめてしばらく経った頃だった。森崎のすぐうしろを歩いていたマックスが何かに反応した。「わんっ!」と一声吼えるなり、脇へそれて右手の藪へ入ろうと、しきりにリードを引っぱる。中嶋はリードを取っていた丹羽と頷きあうと、先に藪の中へ分け入った。今まで歩いていた場所もおよそ「道」とは言い難かったが、それでも子供が遊びに入るくらいなのだから、邪魔になるほどの枝や潅木の類はそれほど多くない。ところがマックスの行こうとするそこは思いっきりの藪の中で、笹に似た鋭い葉だの棘をもった枝だのが一行の邪魔をした。
「うわっ、たまらないな。これは」
 軍手をはめた手で、前を行く成瀬が持ち上げていた枝を受け取りながら本条がぼやいた。
「だけど犬が臭いに気がつく程度だからね。さほど距離はないんじゃないかな」
「それにあのへん葉ぁが薄なっとうみたいやし、もうちょっとで抜けられる思うで?」
「ああ……。なるほどね」
 自分の会社の次期総帥が理事長をしているといっても、一般社員である本条にそこの学生と接触する機会はまるでない。優秀な学生のみを集めているというのは中学高校時代にきいた噂で知っていたが、鈴菱に就職してからもそれ以上の情報が付け加えられたこともない。
 それが今日1日。西園寺や七条、ここの捜索隊のメンバーなどと実際に接してみて、噂は噂でしかないのを知った。BL学園の卒業生たちは皆、「優秀」などというレベルでは表現できないくらい優秀すぎるのだ。何よりも状況の判断が的確だった。今もそうで、同じだけの判断材料が与えられていたにもかかわらず、自分では何も考え付いていなかった。自分もエリートの端くれだと思っていた本条にとって、それはかなりの衝撃だった。ただ、レベルの違いがあまりにもはっきり見えていたので、本条は悔しいとも思わなかった。

 藪を抜けたマックスは、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら1本の木に飛びついた。細いひょろひょろした木の、ちょうど啓太の眼の高さくらいの枝に、ソックスが片方だけ引っかけてあった。
「靴下だ!」
「間違いない。啓太のものだ」
 ソックスを枝からはずした中嶋が即断した。それは何の特徴もない白いソックスだったが、中嶋には見覚えのあるものだった。啓太は主婦でも家政婦でもないと考える中嶋は、きっちりと家事を分担していた。この夏休み中にも何度も洗濯機を回したし、篠宮の薫陶よろしく「洗濯物はお日さまにあてて乾かさないと駄目です!」と主張する啓太に逆らわず、洗濯物をルーフバルコニーに出した物干し台で干しもした。さらには乾いて取り入れたら自分のものと啓太のものとに分けなければならない。つまり中嶋にとって啓太の身につけるものは、ひと目で見分けのつくものばかりだったのだった。
「啓太はここまで下りてきてたんだな」
「ああ。ここでどっちへ進むか迷ったんだろう。目印にこれを引っかけて行った」
 ここまで歩いて下りてきて、目印にソックスを引っかけた。つまり啓太は縛られていることもなく、少なくとも歩ける状態にはあったわけだ。
「だけどよう、ここで靴下を脱いだってことは、啓太は今、裸足でスニーカーはいてるのか?」
「いや……。バッグが残ってれば着替えは持っているはずなんだが」
 眉の根を寄せながら中嶋が言った。ソックスの内側には何本も血の筋がついていた。今の時季なら半袖の服しか着ない啓太である。腕も似たような状態であることは容易に想像できた。
 大きな怪我はしていないかもしれないが、小さな怪我の積み重ねはうんざりとした気分を引き起こし、やがては気力を奪っていってしまう。そしてそれは思わぬ事故につながりかねなかった。せっかくここまで来ておいて、崖から足を踏み外しましたではお話にもならない。
「こちらユニット・シエラ。どうぞ」
 重苦しくなりかけた空気を吹き払うかのように、森崎に位置を確認した和希が無線で指揮所に連絡を入れた。
『ユニット・シエラ。どうしました? どうぞ』
「啓太が目印に残したソックスを発見しました。場所は……」
 そうだ。こんなところで啓太の痕跡を見つけられたのは幸運だったのだ。少なくとも、啓太が置き去りにされた場所からここまで、往復の時間が短縮できる。長いように見えても9月の日の暮れるのは意外なほどに早い。少しでも早く啓太を見つけてやらねばならなかった。
「啓太! どこにいる、啓太! 返事をしろ!!」
 中嶋は思わず啓太の名を呼んでいた。もうすぐだ。この声の聞こえるところに、きっと啓太はいる。そう信じて中嶋は啓太の名前を呼びつづけた。



―― 啓太……!
 また、声が聞こえた。啓太は再び眼を開けた。
 かまきりはまだそこにいて、「疾く立ち去れ」と鎌をふるって侵入者を威嚇している。ぼんやりとその様子を眼に映していた啓太だったが、やがてとても大事なことを忘れていたのを思い出した。
 そっか……。俺、ここにいちゃいけなかったんだ……。
 啓太はのろのろと足を引き寄せた。茂る葉の向こうに、どんなに魅惑的な世界が広がっているように見えたとしても、そこに中嶋がいないのであれば、啓太の居場所であるはずがなかった。そんな大事なことを、どうして今まで忘れていたのだろう?
 足を引き寄せておいてから、身体をねじって両手を地面につく。かなりの時間をかけてようやく腰を浮かせることに成功した啓太は、近くの木につかまって立ち上がった。たったそれだけのことなのに、苦しいくらいに息が切れていた。







いずみんから一言。

和希が無線で話している「ユニット・シエラ」の「シエラ」というのは
「S」を表すフォネティックコードです。
つまりここではユニット鈴菱という意味になります。
このコード。基本的には雑音の多い無線で聞き間違いのないように
するためのものですが、こういう符丁にもよく使われます。
A(アルファ)B(ブラボー)C(チャーリー)と続いていくやつなので、
軍事ものやスパイもので眼にされた方も多いのではないでしょうか。

それはさておき。またしても啓太くんは見つかりませんでした。
いーかげん飽きてきちゃってよ。
早く終わらせて違うものを書きたいです……(涙)。

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