もういちど、この腕に 第 15 回 |
電話が鳴った。 それは異様なまでに静まりかえった家の中に、まるで非常警報のように響き渡った。同時に母は恐ろしい顔で和室から飛び出していった。ほんの1秒前まで石の塑像のように微動だにしなかったのが嘘のような俊敏さだった。 電話を取った「すずびし」の人がちらちらと自分たちの方を見ながら話をしているので、それが兄のことだと朋子にも分かった。期待と不安とで立っているのがやっとの母を、父がしっかりと抱きとめていた。家ではごろごろするばかりのさえない父を、朋子はこのときほど頼もしいと思ったことはなかった。 「すずびし」の人が話していたのはほんのわずかで、実際には1分もなかったと思う。それは朋子にとって十分長い時間だったが、両親にとっては耐えられないくらい長かったようだ。やつれきった母の顔色はみるみる白くなっていった。 「よかったですね。啓太くん、見つかりましたよ」 父親を突き飛ばす勢いで、ようやく差し出された受話器をひったくった母親の顔が、一気にあふれ出した涙でぬれていった。あんなに泣いていたのに涙は尽きるということを知らないようだ。受話器を握りしめているのに相づちさえろくに打てず、ただ頷いてばかりいる。 このままではまた誰からも説明してもらえないと悟った朋子は自分から聞いてみることにした。昨日から泊まり込んで家族の世話をしてくれている女の人が、電話をしていた人と打ち合わせのようなことを始めていたので、聞きやすかったこともあった。 「あのぉ……。お兄ちゃん、ほんとに見つかったんですか?」 「うん、そうだよ。大きな怪我もしてないようだし、意識もしっかりしてるそうだ」 「ああ、そうなんだあ」 「良かったわねえ、朋子ちゃん」 「はいっ」 「このあと、わたしが病院にご案内しますからね。お母さんの準備を手伝ってあげてね」 「はいっ!」 母はまだ泣いていた。だがその涙に洗い流されていくように、母の顔にほんのりと赤みが戻っていた。そんな母に変わって、今は父が電話に出ている。娘のことなど忘れてしまっているような両親の姿よりも、朋子だけに向けられた名前も知らない女の人の笑顔に、朋子はようやく、今回の騒動が終わったのだと実感できたのだった。 伊藤家に第一報を入れていた和希に代わり、指揮所に啓太発見を報告していた丹羽は、和希が電話を閉じたのを見て声をかけた。 「その分だと携帯つながるみたいだな」 「ええ。ここまで下りてきてくれてましたからね。アンテナ1本で結構ヒヤヒヤしましたけど、まあなんとか」 「そうか。喜んでたろうな?」 「それはもう。会話が成立しないくらいに」 苦笑をもらす和希の表情からは、山に入ってから一層強くなっていた危うさのようなものがきれいさっぱり抜け落ちていた。それがすっかりオニイチャンの顔になってしまっているのに気がついて、丹羽は軌道修正を促した。 「そっか。んじゃおまえも疲れてんのに悪いけどよ。もうちょっと喜ばしてやってくれねえか?」 陰でずっと支えてくれていた丹羽警視や西園寺たちに連絡を入れなければならないことくらい、和希にもちゃんと分かっていた。それでもそれは頭で理解している手続きにすぎない。本当はすぐにも啓太に声をかけに行きたかった和希は、視線を泳がせて一瞬の躊躇を見せた。崖から落ちてきた啓太の無事を確認しただけで、和希はまだ啓太とちゃんと言葉を交わしてさえいないのだ。だがその視線の先で、水にむせた啓太は中嶋に背中を叩いてもらっていた。 「どうせこのあと病院まで同行すんだろ? だったら啓太が水を飲む間くらい待ってやってもいいんじゃねえか?」 かつてBL学園で「王様」と呼ばれた頃のカリスマ性そのままに、丹羽は真夏の太陽を思わせる笑顔を和希に向けた。あまりに明るく正大で、ほんのかすかな曇りさえ感じられないその笑顔は、見るものに決して「NO」と言わせない何かをもっていた。そうだ。旅人からマントを剥ぎ取ったのは、冷たい北風ではなく明るい太陽なのだ。 「……そうですね」 一呼吸置きさえすれば和希にだって指揮官としての意識が戻ってくる。オニイチャンの顔をひとまず隠した和希は軽く頷くと、手にしたままだった携帯電話を開いた。連絡しなければならないところはまだ後いくつも残っている。そのすぐ向こうで丹羽もまた、同じように電話を手にしていた。 最後のデータを送り終わっても、狭いレンタカーの中から誰も出て行こうとしなかった。「もうちょっとだけ」とか「あと30分」とか言いながら、寺田たちは報せがくるのをじっと待ちつづけていたのだ。刑事とレンタカー会社の営業所長とカーナビのシステムエンジニア。職業も年齢もまったく違う3人だったが、拉致されたひとりの高校生を救うために協力しあううちに、いつの間にか戦友のようになっていたのだった。 だから啓太発見の連絡が入ったときにお祭り騒ぎのようになったのは、むしろ当然かもしれなかった。 「はっはっはっはっは。やりましたね、寺田さん!」 「いやいやいやいや。花田さん、江平さんのご協力あってこそですよ」 「なんか……。なんか、むちゃくちゃ嬉しいぞーーっ!!」 「いやっほーい!」 「伊藤くん、ばんざーい!」 「ばんざーい! ばんざーい!!」 どうせ車の外には漏れないとでも思っているのか、奇声は上げるわ万歳は三唱するわ、肩を組んででたらめな歌を歌うわ。もうやりたい放題である。そしてひとしきり騒ぎまくったあとで、花田営業所長が提案を出した。 「どうです? これから祝杯といきませんか? このちょっと先にある小料理屋なんですけどね、おでんとお茶漬けが美味いんですよ」 「ああ。いいですねえ」 「行きましょう、行きましょう」 「ちょっと早いかもしれませんがね、何、追い返されたりするもんですか」 尚もへらへら笑いまくりながら小料理屋への道を歩く寺田の携帯電話に、大前チーフからのメールが入った。 『 どうもお疲れさまでした。疲れが吹っ飛ぶ映像を転送いたします。大前 』 何だろうと呟きながら開いたそれは、毛布にくるまれた啓太が中嶋の腕の中で、安心したような微笑を浮かべている映像だった。 鈴菱差し回しのハイヤーが迎えに来たとき。 岩井はもう、マンションの後片付けを終えていた。一流の芸術家である岩井の目には、彼がこのマンションに足を踏み入れたときの様子がはっきりと残っていて、それを忠実に再現していったのである。 とくに手がかりを求めてあちこち探し回った啓太の部屋は、細心の注意を払って元に戻していった。いずれ啓太には部屋を勝手に探したことを詫びねばならないし、おそらく啓太も気にしないでくれと言うに違いない。だがそれでもやはり、誰かが家捜しした痕跡を見つければ、嫌な気分になるのは当然の感情だった。岩井はそれでなくとも辛くて大変な思いをしてきた啓太に、ようやく帰ってこれた家の中でまでそんな思いをさせたくなかったのだった。 自宅へ戻るハイヤーの中で、かすかな笑みを浮かべながら携帯電話を見つめつづける岩井に、運転手が話しかけてきた。 「どうしました? ずいぶん嬉しそうですね」 「……ああ。大事な宝物を失わずにすんだんだ。本当に、こんな嬉しいことはない」 「へえ? それはそれは。おめでとうございます」 「ああ。有難う」 「せっかく見つかったんだから、もうなくさないよう、大事にしないと駄目ですよ?」 「……そうだな。そうしよう……」 話をしながらもずっと落としていた視線の先では、毛布にくるまれた啓太が中嶋の腕に抱かれて運ばれる映像が、何度も何度も繰り返して再生されていた。 啓太を抱いた中嶋が乗りこんだ後部座席のドアを閉め、自身は助手席に回ろうとした和希に、本条が啓太の宿題ノートを差し出した。 「これ……。啓太くん、よく眠ってるみたいですから。起きたら渡してあげて下さい」 「有難うございます。本条さんには本当にお世話になりました。あとでお礼に伺いますので」 「それには及びません」 本条はほんの少し悪戯っぽい表情を浮かべた。 「僕は上司に言われてチームに入りました。つまり業務命令で仕事をしたにすぎません。書類を作成したのと同じです」 「……分かりました。今はそういうことにしておきましょう」 「それより早く。啓太くんを病院に」 ノートを受け取りながら、和希は本条の手をしっかりと握った。彼がいなければ啓太はまだ見つかっていなかったのだ。礼など言っても言っても足りるはずがなかった。そしてそんな和希に頷きを返しながら、本条は尚も「早く」と促した。 ヘリの待つ消防署へ車を送り出すと、やれやれといった空気があたりを包んだ。出社後に呼び出された本条や昼前後から加わった滝・成瀬はともかく、丹羽や篠宮は昨日の朝からずっと、気の抜ける暇がなかったのだ。従兄弟が重大な犯罪を犯してしまった森崎はもちろん、身内の不手際の後始末に借り出された県警の人間たちも同じようなものだったろう。数多の人間がそれぞれの立場で、啓太が生きて救出されたことを本当に喜んでいた。 丹羽と篠宮が中心になって帰りの段取りをはじめたのを、本条は彼らのような人間を送り出してきたBL学園というものに非常な興味を持ちながら眺めていた。自分で言うのもおこがましいが、本条がエリートであることは周囲も認めている事実である。総務の大前チーフが名前を覚えていたのだって、そもそもは若手ナンバーワンの注目株として知られていたからなのだ。車オタク云々はそれに付随した情報にすぎない。 今のところ着々とキャリアを重ねているので、このままいけばよほどのミスをしでかさないかぎりいずれは部長になれるだろうし、取締役だって夢ではないだろう。うまくいけば系列子会社の社長の椅子くらいは回ってくるかもしれない。鈴菱では子会社もほとんど二部には上場させているので、それは他社ほど落ちぶれたイメージではないのだ。 だけど。と、本条は思った。こんな連中を育てられるのなら、BL学園に出向するのも悪くない。学園のために優良なスポンサーを探して営業に回るのも悪くないだろうと思うのだ。そしてひとりでも多く彼らのような人材を送り出せたなら、そのまま本社に戻ることなく学園で定年を迎えたとしても、それはそれなり以上に充実した人生であるのに違いない。血筋と実力の両方を兼ね備え、望めばどのポストも思いのままのはずの和希が「BL学園理事長」の座から離れようとしない気持ちが、今の本条にはとてもよく分かる気がした。 次の異動願いのときにBL学園と書いて提出してみよう。結構本気で本条はそう思った。 啓太を無事に保護したという連絡は、もちろん鈴菱本社第8会議室にも届いていた。 「あっちこっち傷だらけですけど、大きな怪我はないようです」 「そうか。なによりだな」 寺田たちのように大騒ぎこそしなかったが、西園寺も七条も、彼らを知るものがみれば驚くくらいの喜び方をしていた。だが「啓太に何か伝言があれば伝えますけど?」との和希の言葉には、やんわりと拒否を示した。 「わたしたちは黒子でいい。あまりにも大人数なのがわかれば啓太が負担に思うだろう。啓太に礼を言ってもらいたくて手伝ったわけじゃないからな。無事に救出できたのならそれで充分だ」 それはある意味とても西園寺らしい答えだったので、和希も当然のようにそれを受け入れた。 啓太も西園寺たちもまだ10代。これからの未来の方がはるかに多く残っている年代である。今でなくても、礼というかたちでなくても、啓太が彼らに何かを返せる機会は、いつか必ずくるに違いなかった。 啓太は見つかっても、西園寺たちにはしなければならないことがいくつも残っていた。 何よりもまず、中東でのオークション情報を求めて協力を依頼した知人たちに報せて謝意を述べねばならなかったし、七条は七条で、パソコンに残った彼らの痕跡をできうるかぎり削除しておこうとしていた。どちらも時間も手間もかかる作業だったが、啓太が見つかった今となっては手間のうちにも入らなかった。それに楽しみながらする作業はあっけないくらい捗るものである。どうせ礼状は別に出さねばならないのだからと手短に電話を切り上げた西園寺はもちろんのこと、ほとんど鼻歌まじり状態でキィボードを叩いていた七条も、いくらもしないうちに作業の目処をつけはじめていた。 そんなとき。啓太が中東に売られたと聞いて、対応に飛び出していったきりだった大前チーフが第8会議室に姿を見せた。 「遅くなってごめんなさい。お祝いをしましょう」 控えめながらも温かい微笑を浮かべた大前チーフは、そう言うと全開でロックさせたドアの向こうからワゴンを引き寄せた。そこにはクーラーに入ったシャンパンと、いくつかのフルート・グラスが載せられていた。 「クリュッグのクロ・デュ・メニル……ですか。この短時間でこれを用意するとは。さすがですね」 「郁。そんなことよりこのバレリーナ・フルートの方が素敵ですよ。ちゃんと中身に合ったグラスを用意していらっしゃる」 「どちらも本社の常備品ですわ。鈴菱所長のお名前で、1本いただいて参りましたの」 かなりとんでもないことをさらっと言ってのけた大前チーフは、うふふと笑いながら手馴れた手つきで栓を開けた。1本で10万円は下らないシャンパンを、それに相応しい優美なグラスに注いでいく。グラスの輝きがシャンパンの繊細な金色をさらに引きたてていた。贅沢なことこの上ないが、鈴菱ほどの企業になるとこういうものが必要になる場合もあるのだろう。そう。今のように。 誰が選んだかわからないが趣味は悪くないと西園寺は思った。少なくとも高級シャンパン = ドン ・ ペリと思っている輩よりは好感がもてる。そして何かの瞬間に、もしかしたらこの「常備品」は大前チーフが選んだものかもしれないと気がついた。いくら「名物」とあだ名されていようとも、役員秘書ならともかく総務課程度でこんなシャンパンの所在まで知っているものだろうかと思ってしまったのだ。そして何よりこのシャンパンは、見事なまでに彼女とイメージが重なっていた。見た目は優しいが中身はしっかりした辛口で、後を引かない余韻を残す。それは西園寺が見る大前満紀子という女性そのものだった。 グラスを取り上げた3人は黙ってそれを目の高さに掲げた。とりたてて「啓太に」とも言ったりはしなかったが、彼らにとってそんなものは邪魔でしかなかった。啓太が無事で本当に良かった。そんな口に出さない想いが具象化された極上の液体は、ベルベットのような感触で喉を通り過ぎて行った。そして次の瞬間には、誰の口からともなく、ほうっとしたため息のような声が漏れていた。 「やはりいいな、これは。繊細で芳醇で……。いや。どれも陳腐だ」 「そうですよ。本当にいいお酒を表現できることばなど、人間にはもてないのです」 「ふん? おまえにしては詩的だな、臣」 空になったグラスを置いた大前チーフが、パソコンのキィボードを操作しはじめた。今さら何をするのかと訝しく思った西園寺と七条がうしろからのぞきこんだ。 「最高級のシャンパンに相応しいおつまみを出しますね」 そういって2度ばかりマウスをクリックすると、中嶋の腕に抱かれた啓太の映像がモニタに映し出された。毛布にくるまれた啓太は安心しきった顔で中嶋に身を預けていた。 「本条くんが送って来てくれたんです。おふたりのアドレスは分からなかったみたいなので、わたしのところに」 本当に最高級のおつまみだった。昨日からのすべてのものが、この映像と共にたしかに消えてなくなっていくのが感じられる。そして新しい気持ちで味わうために、再び全員のグラスが満たされた。 大前チーフがその映像を寺田をはじめとする実働部隊へ転送していると、しかつめらしい顔をした岡田が入ってきた。この部屋での作業が多かった石塚と違い、西園寺たちとほとんど接触はなかったが、彼も石塚より以上に大変だったことだろう。「岡田さんもどうぞ」と勧められたシャンパンを断らずに受け取ったことでもそれは伺い知ることができた。 「ところでお帰りの手配でございますが」 しばらくの間モニタを眺めていた岡田が、視線を西園寺に引き戻しながら言った。 「如何いたしましょう。ホテルはあのまま押さえておりますが、今からでもとおっしゃるなら今夜のチケットも手配できます」 「いえ。もう一晩お世話になって、明日の朝、帰ることにします。特急列車の手配をお願いできますか?」 「特急……、ですか」 「はい」 西園寺はちらっと七条を見た。七条は何も言わず、ただ肩をすくめて見せただけだった。 「わたしたちはあと数日で日本を離れます。最後にゆっくり景色を眺めながら帰るのも悪くないと思うので」 「かしこまりました。チケットはホテルの方へお届けにあがります」 「よろしくお願いします」 何もかもの後かたづけを済ませて、西園寺たちはこの24時間あまりを過ごした鈴菱本社第8会議室を後にした。最後に岡田の手ですべての電源が落とされ、閉じられたドアには電子ロックがかけられた。 こうして9月2日の朝10時から始まった啓太失踪事件は、ようやく一応の終わりを告げたのだった。 |
いずみんから一言。 参りました。なんと今回もデータでトラブったのです。しかも2度。 まず。1度データが化けました。1枚半くらいのところで文字化けし、それ以降 へはスクロールしようとすると固まるので、その後が化けたか無事かさえ 分からない始末でした。 それをもっと容量の大きなパソコンに持ち込み、力技(笑)でプリントアウトして 打ち直したのがこれだったりします。 あのとき打出しをしてくれる人がいなければ、これはまだ日の目を見ていなかっ たでしょう。本当に感謝、感謝でした。 ところが! 今度はそのデータが真っ黒になってしまったのです。 最初の原稿を書いたのが98の初期モデル。 古くてFDDが馬鹿になったから化けたのかと思い、全部をXPで打ち直したあと、 新しいFDに落としました。 上書きはせず、途中で保存をかけるときはいちいちフィル名を変えて、何かの 時に被害を最小限に抑える努力はしたんですけどね。 会社でも手入れしようと思い、データを送った後、気がついたらまっ黒でねえ。 何かはあるみたいなのよ。ちゃんとファイル名がついてて重さも48kbあるから。 でも真っ黒なの。何も出てきません。ついでに言えば削除もできませんでした。 幸いにも送ったデータは無事だったので、もうそのままupすることにしました。 だからロクに手が入ってなくてごめんなさい。 これ以上消えたり化けたりする前に何とかしたかったんです。 マジでお祓いに行きたい今日この頃です。 さて。ラストはヒデ誕にからんできます。 今年のヒデ誕がもう目の前に来ているので、ちょいと連載はお休みします。 11月になったら忘れずに続きを読んでいただけると嬉しいです。 |