もういちど、この腕に 第 2 部 前 編 |
すっかり慣れてしまった手つきで面会ノートに名前を書きこむと、丹羽はカウンターに置いていた花束を取り上げた。最初のうちは花屋に入ることさえおっかなびっくりだったのだが、すでに店員とも顔なじみになり、入っていくだけで適当な花束を作ってもらえるようになっていた。だから丹羽は自分が手にしている花の名前を知らない。名前なんてどうでもいい。病室が寒々しくさえなければいい。眼を開けたときに花が多い方が喜ぶだろうから。ただそれだけの理由で丹羽は、週に2度は花屋に立ち寄る。その都度に数千円かかる花代を惜しいと思ったことは1度もなかった。だが、花を買わずにすむようになればよい、とはいつも思っていた。 ベル製薬の直営といってもいいベルリバティ総合病院は学園島の対岸の街で、市民病院や大学病院以上の設備を備えた基幹病院と位置付けられている。設備だけではない。全国各地の病院で医師の確保が大きな問題となっている中、この病院では「超」のつく一流の医師ばかりが揃っているのだ。しかも技術はもちろんのこと、患者本位の治療を考えてくれると評判の医師ばかりだった。他所と比べて報酬がさほど高いわけではないらしいのだが、これと思う医師を見つけては和希が直接出向いていき、「人たらし」と言われる笑顔で引き抜いてくるのだった。経営がしっかりした病院であれば不必要な検査や投薬などは必要なくなる。それがまた評判となり、ベルリバティ総合病院は地域になくてはならない病院となっていた。 とはいうものの群馬の山の中で啓太を保護した和希が少しばかり遠いのを承知でヘリをここまで飛ばせたのは、そこがいちばん身近なところだからであって、医療のレベルを考えたからではなかった。啓太は意識もしっかりしていたし、たいした怪我もしていないように見えていたので、最寄の病院でいいかとも思ったのだ。思わず目を背けたくなるくらいの化膿はかなりの広範囲でしていたが、そんなものは抗生物質の投与でどうにでもなる。念のために1泊程度の検査を受けさせたら、あとは寮で様子を見ながら静養させるつもりでいたのだった。ただ、ここなら寮からでも車で20分弱。通うにしろ往診を頼むにしろ、多少の無理なら聞いてもらえる主治医が近くにいる方が何かと便利だったのでこの病院を選んだにすぎない。 だがそんな和希の判断は、思いもかけぬところで正解だったことになる。 ナースステーションをあとにした丹羽は廊下をそのまま一番奥まで進んだ。それでなくとも病院というのは喧騒と無縁の場所だが、VIPフロアの中でもさらに重要な患者のみに用意されたこの一角は、ひっそりとした静寂に満ちていた。和希の指示で他の患者の受け入れを断わっていたからである。そこの通路の左側。一番奥の部屋のドアを丹羽は無造作に引き開けた。手入れの行き届いたVIPルームのドアは、ことりとも音をさせずにスライドした。 「『などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じゆるすべし』……いいか。乱りがはしきを、は先の歌を受けてのことばだ。歌の内容が取り乱れて礼を失しているわけだ……」 ドアを開けるなり張りのある中嶋の声が耳に飛び込んできた。受験を間近に控えた啓太のために、毎日数時間の『授業』をしているのである。どうやら今は古典の時間のようである。浅茅生の宿か……と思いつつ、キリのいいところまで邪魔をしないようにそっと入っていくと、丹羽は花瓶の用意をするためにファミリー・ルームに足を向けた。 VIPルームはなるほど内装も豪華で病院独特の冷たさなど微塵も感じさせないが、それより以上に付添い用のファミリー・ルームが充実していた。一流ホテル並みのベッドや家具をはじめ、病室とは別にバス・トイレも完備されている。そしてそこらへんのアパートよりも立派なキッチンがついているのだ。この部屋だけ見れば、そこが病院内とはとても思えなかった。勝手知ったる何とやら……で、戸棚から花瓶を出し、適当に水を入れて花をつっこんだ丹羽は、病室の方に抱えて戻った。 「……御覧じゆるすべし。これの主語は帝だな。帝の気持ちではない。気をつけろ」 そこで丹羽の動きに眼をやった中嶋は、「ここまでにしよう」と言ってテキストを閉じた。 「ほら、啓太。丹羽が来てくれたぞ」 「よっ。啓太。今日のご機嫌はどうだ?」 窓際に新しい花瓶を並べた丹羽がベッドにかがみこんだ。丹羽の視線の先で啓太は、安心しきった顔で眠っていた。丹羽の指がちょいちょいと啓太の頬をつつく。啓太はくすぐったそうにくすくすと笑った。 「眠り姫のご機嫌は麗しいようだ」 「ああ、あいかわらずだ」 「ホント。気持ちよさそうに寝てるよなあ」 丹羽がため息のような声を吐き出した。 あの日。中嶋の腕の中で眠ってしまった啓太は病院に着いても目覚めようとしなかった。そのときは和希も中嶋も、そして医師までもが何の心配もしていなかった。啓太の巻き込まれた事件を考え、おかれていた肉体的精神的状態を思えば、1日や2日くらい眠りつづけても不思議ではないと思われたからだ。だが啓太は目覚めることなく数日が過ぎてしまった。最初のうちは抗生剤の混ぜられた生理的食塩水だけだった点滴は、いつの間にか高カロリーの輸液が追加されていた。 入院して1週間目に行われた精密検査の結果説明に、啓太の両親の厚意で中嶋と和希も同席することを許された。案内された部屋に入ると、シャウカステンに挟まれた大量の画像フィルム。そして30代半ばと思われる女性医師が彼らを待っていた。 「今回、啓太くんの主治医となりました櫻井美和子です」 「美和さん? いつ日本へ?」 「一昨日よ。病院にきたのは今日からだけど」 どうやら和希とは旧知の仲だったらしい。薄い銀縁の眼鏡の奥から微笑み返す美和子に、和希は「助かった……」と心底ほっとしたような声を洩らした。実のところ鈴菱と櫻井は先代からの家族ぐるみの付き合いであり、美和子は和希が日本でいちばん信頼を寄せている医師でもある。だが今は旧交を温める場所ではない。和希はそれ以上何も言わなかったし、美和子も当然のように啓太の両親に向かって検査の結果を説明しはじめた。 「結論から先に申し上げますと、啓太くんには何の異常も認められません」 「そんな……! だって現に啓太は」 「はい。ですから、おそらくはただ眠っているだけだと思われます。こちらをご覧ください」 美和子は何かの波形を記録した細長い紙を2種類、デスクの上に広げた。 「こちらは啓太くんの脳波です。こちらの所謂『正常』といわれるものとは確かに違いがありますが、音や接触などの刺激にはきちんと反応していることがわかります。……こことか……、ここですね」 素人目にはよく分らない波形であるが、ここと指されたところをみれば、確かに大きく波形が振れていた。美和子が正常の方を片付け、新しく2種類の記録紙を広げた。 「こちらは意識を無くしている方のもの。そしてこちらが植物状態と呼ばれる状態に陥ってる方のものです。これはもう、比較するまでもなく啓太くんのものとは違います」 食い入るように医師の手元を見つめていた啓太の母親が、弾かれたように隣を見た。 「本当だわ、お父さん。啓太、植物人間じゃなかったのよ」 「ああ。本当だ」 「よかった……。じゃあ起きてくれるんですね」 「いずれは、と、思います」 資料を使いきちんと順を追って説明してくれる美和子に、ほっとしたのは何も啓太の両親だけではなかった。同席はさせてもらっているものの、何の発言権も持たない和希や中嶋も、実はこの瞬間に大きく肩の力が抜けたのだった。 「それでは何故目覚めないかということなんですが」 美和子が後から出した2種類の記録紙を片付け、また新しいものを広げた。それは今まで比較したものの中で、いちばん啓太の脳波に近いものだった。 「これは『不安』というものを覚えた幼児が、母親に抱かれて眠ったときのものです。啓太くんは誘拐されて山の中に捨てられていたと聞きました。おそらくとても怖い思いをしてきたのでしょう。助けてもらってほっとしたものの、どこかでそれを現実と捉えていないのだと思います。目を覚ますと、またあの山の中かもしれない。そういう思いが強くて目を覚ませないのです。自分が安全な場所にいると分れば、目を覚ましてくれることと思います」 その説明から2カ月。啓太はまだ目覚めることなく眠りつづけている。 美和子の診断のとおり、啓太は確かに眠っているだけのように見えた。くすぐってやるとくすくす笑いながら身をよじるし、つねれば痛そうに顔をしかめた。鼻をつまめば苦しそうにもがいたあげくに口で息をしはじめ、手を握ると弱いながらも握り返してくる。そして「起きろ」と声をかけると、「う……ん。あと5分……」とごにょごにょ呟くのだ。 入院以来ずっと付き添っている中嶋は美和子の指導のもと、啓太の身体をマッサージし、音楽を聴かせ、授業をつづけた。本来なら専門の療養士が行うべきところなのだが、それでは明らかに啓太の反応が鈍いために、中嶋が任されているのだった。その道のプロである療養士や啓太を今まで育ててきた両親などより、中嶋の手と声に啓太は強い反応を見せるのである。中嶋が代わってそれらを行うのに、反対するものは誰もいなかった。 土曜の午後。朋子の帰宅を待って啓太の母が病院にやってくる。入れ替わりで中嶋は家に帰り、そして日曜の夕方にはまた病院に戻ってくる。月曜から金曜までは和希・篠宮・丹羽の3人がローテーションを組んで中嶋と数時間の交替をする。そのわずかな時間に中嶋は食事や買い物、洗濯などをしたり、あるいは仮眠や自身の勉強などをするのだ。すでに2カ月目ともなれば、それはとてもスムーズに機能していた。 今日は土曜日で、まもなく啓太の母親がやってくるだろう。24時間もの間、自分以外の人間に啓太を委ねることなど耐えがたいのだが、母親が来るというのを拒む権利は中嶋にはなかった。 その一方で中嶋は、「安心しきって眠っている」という啓太に、暗い満足を感じずにはいられなかった。啓太は自分の腕の中で眠りに落ちたのだ。逆に言えば、見つけてすぐに担架で運んでいれば眠らなかったかもしれないのだが、そうしておけばよかったとはこれっぽっちも思わない。自分の腕で安心できて眠ったのなら、それはそれでかまわないではないかと思ってしまうのだ。毎日数時間の和希たちとの交替や週に一度の啓太の母親との交替。たとえ表面上だけにしろ中嶋がそれを黙って受け入れているのは、自分以外の誰かが付いているときに啓太は絶対目覚めないという、呆れるまでに絶大な自信があるからだった。 今日はこのあとマンションに戻るので、丹羽が来たからといって洗濯や食事などをすることもない。今日の丹羽は交代ではなく、中嶋を迎えるために来ていた。目に見えない疲れから来る万が一の事故を嫌った和希が、中嶋の車の運転をきつく禁じているからだった。ベッドの両脇に腰を下ろしたふたりは啓太の抑制をはずすと、啓太の母親が来るまでの時間を利用して、ハンドマッサージをはじめた。 啓太は自分がどういう状態にいるのかわからずに眠っている。当然、何のために身体のあちこちに管がつけられているのかもわからない。にもかかわらず普通に動けてしまうので、それが鬱陶しいとか邪魔だと思えば引き抜きかねないのだ。引き抜くだけならまた入れなおせばいいが、抜けた針がどこを傷つけるか予測はできない。だから啓太自身の安全のために、ゆるく抑制をされているのだった。 掌には第二の脳といわれるくらい多くの神経が集中している。生まれたばかりの赤ちゃんは手で物を掴むことで脳を発達させていくのだ。であれば啓太の手を刺激してやれば脳にもいい影響が与えられるに違いない。そしてこの掌から肘にかけてのマッサージは手軽にできるので、中嶋は時間の隙間などを見つけては啓太の手に施していた。 さらに言えばマッサージをすれば抑制をはずしてやれる。縛るのは好きでも中嶋は啓太を縛ったことはなかった。せいぜいが手首を掴む程度である。啓太には物理的に縛りたくないと思わせる何かが存在するのだ。少なくともハンドマッサージをしている間は、抑制という名で縛られている啓太を見ずにすむ。そういう意味でも中嶋はこのマッサージを続けているのだった。 「あー。しかし何だな、啓太のこんな気持ちよさそうな顔見てると、俺ってマッサージの才能あるのか? って思わねえか?」 啓太にも聞こえるように丹羽が軽口を飛ばした。 「思わないな」 「それはおまえの意見だろ。啓太はそうは思ってないぜ? なー? 啓太」 「勝手に言ってろ。日本は言論の自由が保証されている国だからな」 「啓太が退院したら、ハンドマッサージのバイトで稼ぐからな。修行させてくれた啓太にはもちろん奢らせてもらうつもりだがよ、んなこと言うならおまえはやめだ」 「浮気は許さんと啓太に言ってある」 「ならお前もついて来りゃいいだろ。ただし自分の分は自分で払ってくれ」 中嶋たちは何も暇つぶしに喋っているのではなかった。こうして近くで話していれば啓太が大きな反応を示すので、わざと聞かせるようにしているのだ。丹羽も和希も篠宮も、それぞれに声のトーンも違えば話す内容も違う。啓太の見せる反応もまたそれぞれに違っていた。そして「違う」というのは啓太にとって、おそらくはいいことなのに違いなかった。 聞こえているのかいないのか、ほんわりと楽しそうな笑みを浮かべていた啓太の表情が急に変わった。痛みに耐えてでもいるのか顔をゆがめ、身体を丸くする。そして驚く丹羽の手を痛いくらいに握り締めた。 「おっ……おい。啓太?」 「何でもない。気にするな」 思わず慌てる丹羽に、だが中嶋は至って冷静だった。 「大丈夫かっ? 今、ナース呼んで……」 「待て。丹羽」 「ちょっと待ってろ。すぐ……」 「落ち着け、丹羽っ」 立ち上がりかけた腕をつかまれた丹羽は、「けど……」と言いかけて、かすかに漂ってきた異臭に気がついた。 「あ……」 ばつの悪そうな顔をして、丹羽が少し口ごもった。 「……そういうことだ」 「いや……。悪かったな。はじめてだったもんでよ。その……。焦っちまって……」 「腸を動かすために流動食を入れてるだけだからな。毎日するわけじゃないんだ」 「そっか……」 座りなおした丹羽がもう一度手を握ってやると、力を入れやすいのか強く握り返してくる。やがてその力がふっと弱まった。啓太はほっとしたような顔をする反面、居心地の悪そうな顔も見せた。 「悪いが少し席をはずしてやってくれるか。いくらおまえでも、おむつを替えられるところなんて見られたくないだろうからな」 「わかった。ついでにナース呼んでくるから」 「いや。必要ない」 「けど……。ヒデ。おまえ、まさか自分で……?」 「今更だろう?」 中嶋は困ったような顔でくちびるの端をつり上げた。 「普段からさんざん舌だの何だの突っ込んでるんだぞ? それでなくてもナマでやったら指突っ込んで中まできれいにしてやってるんだ。今更、表面だけの後始末がどうだと言うんだ?」 そのあまりにも何気ない口調に、身体の奥底からこみ上げてくる何かを、丹羽は止められそうになかった。自分の知っている中嶋英明という男は、たとえ両親が寝たきりになったとしても病院に泊り込んだりなどしないだろうし、ましてやおむつを替えるような人間ではなかった。それがどうだろう。そこに眠っているのが啓太だというだけで自分のすべてを放り出し、「献身的」ということばさえ軽く感じられるほどの看護を当然のようにこなしていっているではないか。 啓太は目覚めないといけない。何があっても。こんなにまでの愛情を注がれているのだから。 いろんな思いが絡まりすぎて何も言えなくなってしまった丹羽は、握ったままだった啓太の右手を抑制しなおしながら、普通に話ができるようになるまで呼吸を整えた。そして啓太の頭を軽く撫でてやってから立ち上がった。 「コーヒー豆が減ってたろ? 買ってきてやるよ」 「悪いな」 「いいってことよ。じゃ、あとでな。啓太」 「ああ。それから、丹羽」 「あん?」 「他言は無用だ。……啓太本人にも、な」 「そうか……。そうだな。了解した」 病室はなんとか普通に出られた。と、丹羽は思った。だが後ろ手にドアを閉めたあと、逃げるようにエレベーターに乗り込んでしまった。先刻、湧きあがってきた感情は、飲みこんでしまうにはあまりにも大きすぎたようだ。それでも吐き出してしまう方法などあるはずもなく、まるでその代わりであるかのように、外へ出るなり深い深いため息をついた。少し冷んやりした空気が心地よく、見上げた視線の先ではすっかり高くなってしまった空に雲が綺麗な縞模様を描いている。 ―― もう11月になっちまったんだぜ……? そろそろ起きてやれよ、啓太……。 雲の動きを目で追いながら、丹羽は心のうちで呟いた。 後始末をすませたあと、ついでとばかりに中嶋は啓太の全身を拭いた。 ゆっくりと、丁寧に。すみずみまで余すところなくゆっくりと拭いていく。まるで愛撫のようにその手は優しく。そして眼には微笑さえ浮かべられていた。熱く絞ったタオルは、あるいはくちびるだったかもしれない。 啓太の看護の中で、これは楽しみとさえ言い換えられる時間だった。これは自分のものなのだから自分がきれいにする。中嶋にとってそれは、仕事や義務などではなく、当然の権利に過ぎなかった。 ふたりの人間をつなぐのは何もセックスだけではない。こうしているだけでも日に日に絆が深まっていくのがわかる。啓太の見せる満足そうな表情がそれを裏付けている。中嶋もまた、満足げな笑みを洩らした。 つづけてベビーオイルを塗りこんでいると、背後でノックの音がした。丹羽が戻ってきたのかと思った中嶋は、啓太の上に屈みこんだまま「忘れ物か?」と声をかけた。だが戻ってきたのは驚いたようなナースの声だった。 「まあ! 中嶋さん。おむつ換えなんて私たちでやります、って何度も申しましたのに!」 振り向くとそこには、ぶつぶつ小言を言いながらおむつを換えたことをカルテに書き込んでいる駿河京香ナースと、そしてまだ温かみの残っているそれを手に、何か思いつめたような表情の啓太の母親が立っていた。ナースステーションで挨拶をして、担当ナースと一緒に病室にやってきたのだろう。だがその表情は、中嶋が挨拶をし、啓太に「ほら、お母さんだぞ」と声をかけても和らぐことはなかった。 「本当に……。ちゃんと言ってくださいね? そのために私たちがいるんですから」 「でも来てもらう前に終わるでしょう。啓太だってちょっとでも早くさっばりしたいだろうし」 「中嶋さんって、いっつもそれなんですから」 「俺だって何かやってないと暇なんですよ」 会話に加わってこない母親に、いつもと違う様子を訝しく思いながらも、中嶋はベビーオイルを再び塗りこみはじめた。啓太の母親の視線がまとわりついてくるようだった。 「お母さん。それをこちらに」 啓太の母親の異常さに気がついたのだろう。駿河ナースがトレードマークでもある元気な笑顔を作りながら、中嶋との間に割り込んだ。VIPフロア担当ナースの中でもいちばん若く、看護師長からいつも「おっちょこちょい」とため息をつかれる駿河ナースだったが、啓太の担当に選ばれただけのことはある。このあたりの機転はさすがといえた。 「櫻井先生にチェックして頂かなければなりませんので」 「……え? 何?」 「そのおむつです。便の状態をチェックする必要があります」 「ああ……。はい。すみません。ごめんなさい」 ナースのことばに無意識に返事を返し、手にしていたものを渡しながらも視線を離さずにいた啓太の母親だったが、ベビーオイルを塗りおわった中嶋がペーパータオルで手を拭きはじめたのを見てベッドに近づいた。ベッドの上では痩せて一回り小さくなった彼女の息子が、オイルでつやつや光る素肌をさらしていた。 いつもなら手を洗ってオイルを落としてきた中嶋が新しいパジャマを着せ、シーツを取り替えるところである。そして啓太の母親が居合わせたら、中嶋が作業をするのをときどき手伝いながら雑談を交わす。だが今日は違っていた。着替えさせるために用意してあったパジャマを、母親が取り上げたのだ。そして普段の彼女からは想像もつかない硬い声でナースに声をかけた。 「……駿河さん。手伝っていただける?」 「はい……?」 「18にもなるともう重くって……」 暗に、手を出すなと言われているのに気がついた中嶋が、らしくもなくベッドの手前で足を止めた。啓太の母親とは、先週どころかつい2日前にも電話で話したばかりだ。そのときは何もなかったのに、突然のこの変化はいったいなんだというのだろう。戸惑う中嶋には気づかないふりをした啓太の母親は、駿河ナースの手を借り、パジャマを着せ終えた。 「……いつも」 シーツを取り替えるためにベッドの片側に寄せた啓太が、動いてナースの邪魔をしないよう押えながら、母親はベッドにかがみこんだまま呟くように言った。 「啓太のおむつは中嶋さんが換えて下さってたんですか……」 「たまたま俺が気づいたときは。はい。換えてました」 「…………どうして……」 「看護の専門知識がない俺でもできることだからです」 その答えに重いため息をついた母親が、のろのろと中嶋の方に振り向いた。 「貴方と啓太は……。どういう関係なんです……?」 「どういう……。とは……」 「いくら母親だってね、こんな大きくなった子供の下の世話なんてするのは嫌なんです。主人だったらおそらくできないに違いないの。こんな汚いこと……。ナースでもない貴方ができるのは何故なんです!」 「それは……」 それが何であれいつもは周到に答えを準備している中嶋が、思いもかけない追及にことばを無くした。まさかこんなところで感づかれるとは思ってもいなかったのだ。そしてさらには、啓太の母親は適当にその場かぎりのことばであしらっていい人間ではなかった。啓太が高校を卒業するまでだけでも知られてはいけないと思いつづけてきた中嶋だったが、腹をくくるときがきたようだった。 「……啓太の気持ちは分りません。ですが俺は本気です」 「どうして……っ! 啓太は男ですよ? 貴方みたいな人ならどんな美人でも思いのままでしょう?」 「それでも、です。俺は啓太に本気になってしまった。この気持ちを偽るつもりはありません」 さらに大声を出しそうだった母親の腕に、駿河ナースがそっと触れた。 「何なの!」 「……お母さん。あまり大声だと啓太くんが驚いてしまいます」 「……ああ…………。そうね……。……ごめんなさい」 「いえ……」 いいきっかけをもらえたかのように啓太の母親は中嶋に背を向けると、再び息子の上にかがみこんで、乱れてもいない毛布を直した。 「……この子ったら、貴方に身体を拭いてもらったあとは、すごくいい顔してるの……。私が拭いてもこんな顔しないのに……」 最後は涙声になっていた。パスワードがぴたりと一致したかのように、それまで見えていたものがまるで違うものに変わってしまったのだ。たかが家庭教師を引き受けたくらいで一緒に住んだのも、海外旅行に連れて行ってもらったのも、今思えばおかしな話だった。喜んでいた自分たちの迂闊さは悔やんでも悔やみきれないだろう。 いい先輩だと信じて息子を預けた男が、じつは息子の恋人だった。どこまでの関係かは怖くて訊くこともできないが、そういう眼で様子を見れば、すでに一線を超えていることくらい容易に分る。身体を拭いてもらっているという一点だけ取り上げてみても、男同士の気安さからなどでは決してないのだ。 だが半狂乱になって問い質そうにも、息子はいつ目覚めるか分らない眠りの中にいた。処理しきれないほどの感情が一度に押し寄せ、涙となって流れ出そうとしたのだろう。だがその目から涙がこぼれ落ちることはなかった。 「……主人も朋子も、貴方のことをいい人だと信じているんです。お願いだから知られないようにしてやって……」 悪いことなどしたつもりはないが、啓太の母には自分を罵る権利があると中嶋は思っていた。世間から祝福されない道に啓太を引き込んでしまったからである。啓太の両親から普通の幸せを取り上げてしまった自覚だけはいやというほど持っていた中嶋は、泣き喚いて罵られたところで、甘んじて受け入れていたに違いない。にもかかわらず、まるで自分の方が悪いような啓太の母のことばは、中嶋を戸惑わせてしまっていた。 「……合格発表が出たら、啓太をご実家に帰らせます。あとは啓太の意思に任せます」 「…………」 「約束します。啓太が戻らないと言えば無理に連れ出すことはしません」 「…………」 「ですから今は、受験に集中させてやってください。去年からあんなにがんばってきたんです。今、気持ちを乱して受験をしくじるなんてことはさせたくありません」 「受験……?」 啓太の母親が訝しげな眼を中嶋に向けた。 「受験って。貴方、啓太が受験できるって本気で思ってるんですか!?」 「センター試験の申し込みはやっておきました」 「そうじゃなくって……!」 「啓太は必ず目覚めます。俺やご両親が信じてやらなくて、どうして安心して目を覚ませるっていうんです?」 むしろ静かといっていい中嶋の口調だった。啓太の母親は呑まれたように口を閉じ、そしてまた視線をそらした。 「受験のあとで……。啓太が戻ったら、……どうするの……?」 「そのときはもう離しません。誰に反対されても、です」 先刻は何かに堰きとめられていた涙が、母親の頬を伝っていった。 中嶋が病室を出ると、廊下の向こうの長椅子に丹羽が座っていた。戻っては来たものの、部屋の外まで聞こえる母親の声に、中に入ってこられなかったようだ。中嶋に向けた情けなそうな顔は、聞いてはいけないことを聞いてしまった罪悪感と、割って入って止めてやれなかった申し訳なさとに彩られていた。 「……悪ぃな。なんかその……、入りそびれちまって」 「……ああ」 中嶋ももう、誰とも話などしたくない気分だった。こんなとき余分に話し掛けない丹羽が有難かった。ふたりして黙って下へ降り、車の助手席に納まると、中嶋はシートを一杯に倒してアイマスクをかけた。眠るつもりはなかったが目を開けているのも鬱陶しかったのだ。 「寝てていいぜ。マンション着いたら起こしてやるから」 「……いや。遠藤のマンションに回してくれないか」 自宅マンションは遠いので、和希が自分のマンションを提供していた。捨て子事件のときに啓太が訪れたあのマンションである。鍵のかかっている部屋以外は自由に使っていいと言われていて、中嶋だけでなく丹羽や篠宮も何度か使っていた。そこへ車を回してくれと言っているのだ。 「今日は啓太のいない部屋に戻りたくない……」 啓太に会いたかった。 眠っている啓太ではなく、幸せをまきちらしながら笑う、あの笑顔に。 たまらなく会いたかった。 了解とだけ応じて、丹羽は車を発進させた。色づいた街路樹が一枚、後を追うようにはらりと落ちた。 |