もういちど、この腕に 第 5 回 |
「何だってこんなとこ、登ってきたかなあ」 黙っているのに耐えられなくなって、啓太はわざと愚痴をこぼした。 道なき道を、わずかな枝の不自然さや下草の乱れを頼りに進んでいるのだ。這うように探していれば頭上がお留守になってしまうし、頭上を気にしすぎると足元を踏み荒してしまう。ゆっくり落ち着いて進めばいいと分っていても、集中力を切らせない作業はやはり疲れた。 「帰ったらあ、あっつーいお風呂に入ってえ、カキ氷たべてえ、中嶋さんと寝る!」 だが時間切れは意外と早かった。樹が茂っている分、夕暮れよりも早く暗くなってきたのだ。 啓太は無理をしなかった。ヘタに歩き回って手がかりを消してしまうよりは明日の朝を待つ方が確実だ。 虫に刺されてひどい目にあっているので、居心地のいい場所よりも虫の少なそうなところを探して、大きめの岩の上に座りこんだ。依然として空腹は感じなかったが、カロリーを少し補給しておこうと、ピンクのくまちゃんのペットボトルを開けて紅茶を3口だけ飲んだ。「甘すぎる」といって、ダイエット中の女の子に人気の無い紅茶のはずなのに、今の啓太には甘さはこれっぽっちも感じられなかった。 啓太の友人と話ができたのはやはり大きかった。茶々屋を予約した野村は、やはり啓太の元同級生だったのだ。先刻から何度かけても誰も電話に出ようとしなかったのが気に入らなかった中嶋の目は、凶悪なまでに細められていた。 「そいつは幹事なんかをまめにやるタイプだったか?」 「まっさかぁ! どっちかってっと、呼んでもこないクチですよ。それが突然「同窓会やるぞ」とか言ってきたんで、よっぽどみんなに会いたかったんだなあ、ってみんなと話したんす」 「みんなに会いたかった、というのは?」 「ああ。そいつ行ける高校なくって、どっか遠いとこの全寮制の高校……。えっと、あの、BL学園みたいなとこじゃなくて、願書さえ出せば入学できるってとこあるじゃないですか。そこに入ったんすけど、1年のGWのあとくらいにはもうこっちに帰ってきてたなあ……」 「転校したとか就職したとかは?」 「いつもぶらぶらしてるから……。バイトもしてないんじゃないすかねえ」 家が引っ越すか何かで電話番号が変わったかと思ったが、船木はそれもあっさり否定した。中嶋の心象は、もう完全にクロである。できるだけ早いうちに野村を捕まえて話を聞かねばならないだろう。 「どこに行けば会えるか分るか? 何度電話しても誰も出ないんだ」 「いや……。俺はあんまり親しくないんで、今夜中に誰かに聞いときますよ」 「頼む。この携帯なら何時でもかまわないから」 電話を切ると心配そうに立っている岩井と眼があった。先刻の「茶々屋」が大当たりだったと告げると、ほっとするように表情を緩めた。 「今のうちに食事をして寝ておく方がいい。おまえに食べさせろといって、篠宮が作っていったんだ。報告してる間に温めておく」 言われてみれば朝からコーヒーしか口にしていなかった。啓太はちゃんと食べているんだろうか。和希へ報告しようと電話を取り上げながら、中嶋はそんなことを思った。 啓太らしい映像はなかなか見つからなかった。啓太を知らない女子社員が探している所為かと、彼女たちを帰宅させたあとで、和希・西園寺・七条の3人で見直してみたのだが、それでも結果は同じだった。頭ではそううまくいくものではないと分っていても、やはりがっかりした感は否めなかった。 「よし。七条くん。郵便局外部の映像を朝まで巻き戻してもらえるかい?」 気分を変えるように和希が言った。七条が不審げな眼を和希に向けた。時間がもったいないとでも言いたいのだろう。 「朝、ですか? 伊藤くんが家を出たのは昼前だったのでは?」 「いや。大前チーフがまとめた報告書によると、気になる車両が映っているらしい。8時半頃から映っているということなんだが」 「あの人はそんなところまでチェックしていたのか」 「そのようだ」 そういう目で改めて見てみると、駐車場のいちばん向こうの端に、停めっぱなしになった車のテールの一部分 ―― 左のリアタイヤの真ん中あたりからうしろにかけて ―― だけが映っていた。白い色の普通乗用車で、見過ごしていればどうということのない車両である。 これのどこが大前チーフの目に映ったのか。固唾を飲みながら巻き戻してみたものの、バックで入ってきたので運転席は映っていないし、角度が悪くてナンバープレートさえ読み取れなかった。 たったこれだけか。その思いが3人の胸をよぎった。車内という贅沢は言わないものの、せめてドアの端でも映っていれば人の出入りが分るのだが。それでも大前チーフが報告をあげてきたのだから何かがあるのだろう。ただそれだけを根拠に見つづけている画面の中で、郵便局に来たらしい何台もの車が入っては出て行った。 「確かに。これはおかしいですね」 「ああ」 その車は朝の8時27分に駐車した。そのときにはその車しかおらず、9時を回った頃から次々とほかの車の出入りがはじまる。つまりこれは職員用ではなく来客用の駐車場ということになる。駅から遠く離れたところの住民が、電車を利用するのに駅前のスーパーの駐車場に車を置いていくのはよくある話だ。無料で何時間でも置いておけるのだから、同じように郵便局の駐車場に車を置いて出かけた人物がいるのかもしれない。だがこれは啓太の失踪した日の映像だった。その日にたまたま停めっぱなしたなんていう偶然は、今の彼らに信じろという方が無理だった。 「よし。じゃあ早送りのスピードをもう少し上げてくれないか」 和希の言いたいことは分っていた。七条が11時過ぎの、啓太が通りかかったと思しき時間まで画像を早送りにする。そして11時39分。呼吸することさえ忘れて見守る3人の目の前で、車はほんの少し下がってから右方向へ消えていった。 「……ビンゴ」 七条の小さな呟きに、和希と西園寺が頷きを返した。 「タカオ。朝ごはん作っといたから」 「……ああ」 「あたしもうバイト行くから。ちゃんと起きて食べてね」 「……ああ」 野村隆雄がこの女の家に転がりこんでから、もう3カ月近くになる。 わずか1カ月で高校を中退して帰ってきた息子に、両親はお互いに相手の育て方が悪かったのだと罵りあい、去年、ついに離婚した。野村の親権者になった母親はことあるごとに愚痴をこぼすようになり、それを嫌った野村は家を飛び出した。以降、女の家を転々として日々を暮らしている。 今の女はゲーセンで知り合った。3カ月も一緒にいたのはこの女が年下でおとなしく、野村に対して「働け」と言ったりしないからだ。同じように親元を飛び出したこの女は毎日、野村のために朝昼兼用の食事を作り、その日の小遣いもおいてコンビニのバイトに出かけていく。 「ちっ。たったの2千円かよ」 もうすっかり冷え切ったハムエッグを口に運びながら、野村はフンと鼻を鳴らした。2千円ではいくらも遊べない。これ以上、風俗店で働くのを嫌がるようなら、この女とも別れ時だろう。野村だって馬鹿ではない。この間、ちょっとしたバイトでもらった5万円は、次の女を見つけるまでの生活費として、ちゃんと使わずにおいてあるのだ。 足りない分はそこらへんの生っちょろいガキを締め上げて補充するか。そんなことを思いながら2千円をジーンズのポケットに突っ込んで外へ出た野村は、通りに出たところで声をかけられた。 「突然ですまないが。君は野村隆雄君だろうか」 見れば風紀委員のような服装に生真面目な表情の男が立っていた。背は野村より少し高いがさらさらの髪を幾分長めに切りそろえたところが、どことなくひ弱そうに見えた。小遣いを補充するのは何もガキでなくてかまわない。こんな年上の男の方が財布にはたくさん入っていることだろう。肩をそびやかしてにやりと笑った野村は、男との間合いを詰めた。 「だったら何だよ」 「この間の中学同窓会のことで、少し話を聞きたいんだが」 突然、野村の脳裏に赤信号が灯った。考えるより先に身体が動き、身を翻してその場を去ろうとする。が、真うしろにいたガタイのごつい男がそれを阻んだ。いくら前の男に気を取られていたといっても、野村だってそれなりに喧嘩の場数は踏んできたのだ。うしろに誰かいたら気配くらいは感じ取れる。それがその男は無造作に立っているようでいて気配を完全に消していた。ならば、とばかりに振り返ったが、ひ弱そうに見えたはずの男の周囲にも隙はない。 ―― 何者だよ、こいつら。 野村は生まれてはじめて、自分以外の誰かに恐怖を感じた。 昨夜。大前チーフから受け取った報告書には、例の不審な車の件ともうひとつ。朝一番で業務第3課の本条要を召集して欲しいとあった。だが人事の記録を見てもとりたてて彼でなければならない理由は見つからなかった。せめて総務課の在籍記録があれば大前チーフとのつながりも見えてくるのだろうが、それもない。 首をひねりながら業務部に話をつけた和希の前に現れたのは、子供より母親の方に人気があるという変身ヒーローもののドラマに出てくるような、現代風のイケメンだった。小洒落たスーツに身を包み、ネクタイの趣味も悪くない。突然の呼び出しに戸惑っているようではあるが、少なくともそれを表に出すような態度はとっていない。和希をそのままスケールダウンしたような姿は、言ってみれば典型的な若手鈴菱社員そのものなのかもしれなかった。 「ごめんなさいね本条くん。ちょっと協力してもらいたくて」 「課長も了解しているのでそれはかまいません。でも自分に何か協力できることがあるんでしょうか」 本条が不思議に思うのもあたりまえだろう。出社するなり課長に呼び出され、ベル研の所長に協力するように言われたのだ。首をかしげながら会議室に来てみれば、プラチナブロンドの怪しげな笑みを浮かべる男が、息を飲むような美形を守るように立っていた。しかも指示を出してきたのはまったく関係なさそうな総務名物 ・ 大前チーフである。その大前チーフは、すべての疑問を封じ込めるような笑顔をにっこりと本条に向けると、モニタの隅を指差した。 「ここに白い車が映ってるでしょう?」 「はい」 「車種の特定できる?」 「……たったこれだけで、ですか」 「そう。本社一の車オタクだって話でしょ。なんとかならない?」 ここでようやくこの場にいた全員が、本条の呼び出された理由を悟った。大前チーフは啓太という人間が見つからないのなら、啓太を乗せたと思われる車を追おうとしていたのだ。和希も昨夜のうちに鑑識のもつデータと照合してくれるよう丹羽警視に依頼を出し、平行して各メーカーにも協力を要請するメールを出していた。だが回答などこの時間にはまだあるはずもない。大前チーフの判断で作業は一気に進みはじめたのだった。 「いやまあ、ある程度の絞りこみはできますけど。特定はちょっと……」 「じゃあ他の映像を見て、同じ車が通ったらわかる?」 「ああ、それくらいならなんとか」 ふたりの会話を少し離れたところで聞いていた西園寺が、彼らに目を向けたまま、隣に立っていた和希に小声で話しかけた。 「おい遠藤。本社に戻るつもりがあるのなら、彼女だけは敵に回すなよ」 「今、肝に銘じているところだよ。総務が手放さないはずだ」 そしてふたりは付近の詳細な地図を広げた会議用の机に歩み寄った。 コンビニの入り口を映した映像に啓太を乗せたと思われる車が映っていた。店内の客が邪魔になって肝心なものは何も映っていなかったが、彼らがどの方向へ向かったのかは確認ができた。地図と照らし合わせながら、七条がその前方にあたる範囲の映像を本条のモニタに回していく。丹羽や篠宮が昨夜かなり遅くまでチェックに回ってくれていたのが有難かった。作業が進みはじめたところで映像切れ、などということになったら目もあてられない。丹羽警視から協力依頼を出してもらったところからテープが届くのはまだもう少し時間がかかるだろう。あるだけのものでどこまで進めるか。昨日とは打って変わった、贅沢な心配が頭をもたげはじめていた。 地図の上に書きこまれたルートが少しずつ延びはじめた頃、秘書の岡田が来客を告げた。 「寺田さまとおっしゃる刑事さんがお見えです」 「寺田さんが?」 予想もしていなかった援軍の到着だった。思わず大声をあげてしまった和希の前に、いつもの朴訥な笑顔を浮かべた寺田が現れた。 「おっ。やってますね」 「寺田さん……。わざわざ来ていただいて恐縮です」 「いやあ。伊藤くんが行方不明なんて聞いたらいても立ってもいられなくなっちまいましてね。捜索願を受理したその足で出てきたんですよ」 「すみません」 「いいんですよ。鈴菱さんのことだから、どうせ今日中に決着もつくだろうし」 「今日中ですか? そうなればいいんですが……」 「いえ。今日中でないといけません」 寺田はいつもの笑みを消していた。あまりの真剣さにその場にいた全員が思わず寺田を見た。 「渋谷でも新宿でも。遊んでいるならかまいません。でもそうでないなら、今日中に見つけないと伊藤くんの体力が危なくなる可能性がある」 寺田に似合わぬ強い口調は、会議室内の空気を一気に引き締めた。 「知らねえって。ホントになんにも知らねえよ!!」 近くに停めてあった車の後部座席に連れ込まれるなり、野村は思わず口走っていた。何も問われないうちから口を割ったようなものだ。丹羽と篠宮に挟まれて狭い後部座席に座っていれば、確かにそれくらいの威圧感はあるに違いないが。 「まあそう言うなって。俺らおまえをどうこうしようってんじゃないんだ」 いきがっていた分、落としやすい。そう見た丹羽は野村の肩を抱いた。 「伊藤啓太。知ってんだろ? 中学んときの同級生だよな。あいつ行方不明になっちまったんだよ」 「行方不明……? って、んなこと俺、知らねえよ!」 「同窓会の翌日だ。学園に戻ろうとした途中……、郵便局のあたりで姿を消した」 「ホントに聞いてねえって! 信じろって!! ……信じてくれよぉ」 啓太が行方不明になったことは本当に知らないようだった。顔色が変り、声が上ずってしまっている。あと一押しだ。 「知っていることだけ話してくれればいい」 「俺らは啓太を探してるだけだ。警察が来る前に吐いちまう方がいいぜ」 「警察っっ!?」 ほら、とばかりに丹羽が窓の外を指差した。そこにある花屋の店先で、打ち合わせどおり丹羽警視の部下が店員の話を聞いていた。 「あそこにいるのが公安の刑事だ。別口で所轄も動いてる。まあ、捕まるなら所轄にしとけ。過激派相手の公安に捕まると……」 「どっかのおっさんに頼まれたんだよ! 同窓会やって伊藤が来たら5万円くれるって言われたんだよ!!」 もう何も必要なかった。野村が吐き出すことを拾いあげればいい。そうして野村は、運転席に設置されていた隠しカメラに向かって、知っていることをぶちまけはじめた。 当然のことながらほとんど眠れなかった。蚊がいなかったことだけがせめてもの慰めだった。虫刺されだらけの身体にこれ以上刺されるのも願い下げだったが、何より耳元であの「ゥィーン」という神経に障る羽音を聞かなくてすんだだけでも休まる気がした。 下界ではまだ夜もそれなりに暑いというのに山の中はひんやりとしていて、湿った服を着たままだった啓太の体力を奪っていた。どうせこれから夜露で濡れるのだから、夜が明けてから着替えようと思ったのが間違いだったようだ。 抱えこんだ膝の上にのせたペーパーバッグに片頬を預けて、少しでも眠ろうと努力していた啓太は、夜明けを待ちかねるようにして一夜を過ごした岩から立ち上がった。 「いってー。身体中こきこきだよ」 まずは大事なペーパーバックをバッグの中に仕舞った啓太は、新しいポロシャツを出すと今まで来ていたシャツを脱いだ。裏返ったシャツは掻き傷で血だらけになっていた。わざと体は見ないようにしたが、虫に刺された傷や掻いた傷が熱を持ちはじめているのは見なくても分った。この分だと早めに手当てをしないと化膿してくるに違いない。 新しいポロシャツを着、パンツと靴下をはきかえた。今できる限りでさっぱりとした啓太は、もっとちゃんと陽が差してくるのを待ちながら、疲れた顔でペットボトルの紅茶をがぶ飲みしていた。あとのことを考えて水分を温存しておくなどという考えは、もはや思いつかなくなっていた。 |
いずみんから一言。 啓太くんの体力がだんだん落ちてきました。 実は意識を取り戻すまでに丸一昼夜かかっているのです。 次回くらいにごろごろっと話が動けばいいんだけど。 捜索メンバーに加わった業務第3課の本条くんは、いつもイラストを頂戴している アッキースのカナメさまからお名前をお借りしました。 彼はカナメさまに差し上げます(笑)。 |