もういちど、この腕に

第 6 回




 自分ではそれほどとは思っていなかったが、確実に体力と気力が落ちていた。何より集中力が低下していた。小さな「何か」を見つけて移動したはずなのにそれを見失ったばかりでなく、何を探していたのかさえ思い出せなかったことも一度や二度ではなかった。石が裏返っているのを見つけて進んだつもりが、先刻、自分が転がしてしまった石だったこともあった。
 見わたす限り木ばかりで先へ進んだ気がしなくなったのも疲れに拍車をかけていた。高度が変っていくに連れて木の種類も変っているのだが、ただでさえ都会育ちの啓太には見分けることさえできないのだ。焦りがミスを呼ぶ回数が増え、やがてそれは啓太自身も気がつくくらいになった。
「……中嶋さん、俺、疲れてるのかな……」
 さっきまで聞こえていた中嶋の声は、どんなに耳をすませても聞こえてこない。木にもたれかかった啓太はそのままずるずるとへたりこんでしまっていた。



―― ゲーセンで遊んでたらよ、おっさんがふたり来たんだよ。んで同窓会やって伊藤が来たら
    5万円くれるって言ったんだよ。
―― 知ってる男か?
―― 知らねえよ。あんなおっさん。
―― じゃあそいつはどうしておまえを訪ねてきたんだ。
―― ちゃんと見てたわけじゃねえけど、あのあたりで幅きかせてる、えっと……。ナオっつった
    かな。チンピラが連れてきてたような気がする。うしろの方でちらっと見かけたし。
―― わかった。それでそのおっさんはどんな奴だったんだ? 名刺とか貰わなかったのか。
―― 名刺は貰ったさ。俺だって馬鹿じゃねえんだ。タダ働きさせられちゃたまんねえからな。
    名刺の裏にちゃーんと 『 同窓会に伊藤が来たら5万円 』 って書かせたんだぜ。
―― それは上出来だ。で、その名刺はどうした。
―― ……金と引き換えに返した……。なんたら会社の調査部って書いてたのは覚えてるけど。
    ……ってよ、これってやべえ? 持っとく方がよかったっけか?
―― …………。まあ渡してしまったものはしょうがない。そのふたり、どんな人相をしていたか
    言えるか。
―― ……えーっと。名刺くれたのは……。40くらい? で、腹の出た小男だった気がする。もう
    ひとりはやたらエラソーな背の高いおっさんで、こいつはうしろにいて一言もしゃべらねえん
    だ。なんかやたらムカツクおっさんだったんだけどよ、まあ5万円くれるんだったらこれもビ
    ジネスだと思ってだな……

 頭が痛くなりそうだった。丹羽と篠宮が送ってきた映像を見て、誰もがそう思った。こんな程度の低い男に啓太は陥れられたのだ。しかし単純なだけにミスが少なく、失敗したところで致命傷には至らない。おそらく同窓会に啓太がこなければ第2第3の計画がたてられていたのだろうが。野村に話をもちかけた謎のふたり組は適度に他人を使い慣れているようだった。
「まあ、名刺の件はしかたないな」
 和希が、自分を押さえつけるように、大きくため息をつきながら言った。
「こんな男に渡すのに、本物の名刺を使うとも思えない」
「むしろその場限りのニセモノと思っておく方がいいだろうな」
 野村の話に出てきた 『 ナオ 』 については寺田が地元の警察に照会をいれるということだったので、野村がスカウトされたゲームセンターへは丹羽と篠宮を向わせた。ナオが見つかれば依頼者らしき二人組も分かるはずだ。そのふたりが啓太を拉致した実行犯である可能性も考えれば、警察が行って警戒されるようなヘタな真似はできなかった。

「おっしゃー。出たぁっ!」
 静かだった会議室に本条の声が響いた。そこに大前チーフの声が重なる。
「確かなの!? これだけしか映ってないのよ?」
「クビかけてもいいです。同じ車ですよ!」
「いいわ。拡大して!」
「了解しました」
「遠藤! おいっ、遠藤っ!!」
 文字通りの急展開だった。普段は物静かな大前チーフや西園寺までが大声をあげたことだけでも何かが起こったのがわかる。邪魔にならないよう部屋の隅で石塚と明日以降のスケジュールについて話し合っていた和希は、その声に弾かれたように駆け戻ってきた。
「どうしたっ!?」
「待ってください。すぐに拡大しますから」
 大前チーフが和希に場所を譲った。キーボードを操作する七条の肩越しに、睨みつけるように画面をのぞきこむ。少々わかりにくかったが、確かに車のテール部分が、カメラの向かいの建物の、ガラスのドアに映りこんでいた。黒く光ったところが鏡のようになっているとはいえ、映っているのはほんの一瞬で、しかもゆがみが入っている。ここと当たりをつけた部分を七条が範囲指定してはコントラストを調整し、ゆがみを修正していく。そして最後に鏡面反転させるとナンバーの一部が読み取れた。
「品川 わ うーん。このあとはちょっと読みづらいな。86の……」
「3か……8、でしょうか」
「いや。無理はしなくていい」
 浮き立ちかけたメンバーを和希の冷静な声が引き戻した。無理をして間違った結論を出してしまっては元も子もなくなるからだ。レンタカーと分っただけでもK点超えの大ジャンプだった。ある程度の車種や色も分っているので、これで啓太を乗せた車は特定できるに違いない。レンタカーを借りたのなら免許証も提示している。つまりは啓太を拉致した人間が判明する。となれば浮き立つなという方が無理なのかもしれなかった。指揮官でさえなければ、和希だって本条とハイタッチのひとつくらいやりたかったのだ。損な役回りだがそれも和希の仕事だった。素直に喜ぶことさえ許されない自分を宥めてやりながら、和希は電話を取り上げると丹羽警視を呼び出した。

 Nシステムは主な国道や高速道路に設置された、自動車のナンバーを自動的に撮影する装置である。本来の使用目的は違うものの、Tシステムも同じような装置といっていい。このシステムの下を通過した自動車は好むと好まざるとにかかわらず、特殊カメラでもれなく撮影されてしまうわけだ。実際、この装置のおかげで犯人逮捕に至った重大事件も少なくない。ただ設置場所そのものは雑誌やネットで情報の交換がされているので、プロの犯罪者がひっかかる率はむしろ下がってしまっていた。その場所を避けて通ればいいだけの話だし、プレートを偽装したり汚したりしておけば、撮影されても他車と判断され逮捕には至らないからだ。いくら顔写真も写るとはいえ、ナンバーの検索もせずに顔だけを探すのは非現実的にすぎる。啓太を拉致した犯人がそのあたりを熟知したプロかそうでないかはまだ分らないが、丹羽警視のカンは「素人ではないがプロといえるほどでもない」と告げていた。
 カンといっても単なる思いつきではない。公安警察として長年、犯罪者の「動き」を追いつづけてきた眼には、犯人の行動がどうも中途半端に見えてしかたがないのだ。野村を使った手口は、鮮やかとはいえないまでも十分有効であったのに、当の啓太を拉致するのに何時間も同じ場所に車を止めつづけて怪しまれてしまう。和希の話を聞いた丹羽警視は、これならNにひっかかっているかもしれないと思った。
 丹羽警視はすぐに陸運局に連絡を入れ、犯行に使用された車がどこのレンタカー会社のものかが特定された。レンタカーが使用されたと分った時点で関東一円にある全レンタカー営業所の細かい所在地と地図を調べさせていた大前チーフは、特定されたとの連絡が入ると間をおかず、寺田刑事の携帯電話にデータを送った。特定されたという連絡が入ってから、わずか2分弱しかかかっていなかった。

 寺田が東京都港区内にあるレンタカーの営業所に急行する一方で、Nシステムの検索がかけられた。啓太を乗せたと思われる車は都内へ向かったようだった。ほぼ都内を縦断するかたちで南へ進んでいる。
 データが少しずつ揃いはじめた頃、マンションを岩井に任せた中嶋が丹羽たちに合流した。「ナオ」と呼び名が分っているだけで写真さえないチンピラの手がかりがまるで見つからないのだ。探す人手はひとりでも多く欲しかったし、中嶋にしてみてもマンションでできることはもう何もなかった。和希はほどよいタイミングで中嶋を呼び寄せたことになる。
「ナオ」については寺田が地元警察の少年課や生活安全課で調べていたが、よく分らないという回答が返ってきていた。野村が顔も名前も知っているのに警察はよく分らないという。それはこのあたりの人間ではないからじゃないかと丹羽が言った。
「悪いヤツってのは突然悪くなったりしねえんだよ。大抵は中学くらいから悪くなる。だったら少年課に記録があるはずなんだ」
「だが実際問題として記録はない」
「ついでに言えば、どこの組織にも必ず生き字引みたい人間がいるだろ? そいつらさえ知らねえんだ。このナオってやつは」
「それでこのあたりに生活の基盤がないんじゃないかと思ったわけだな」
「そういうこと。まずは地道にナオを知ってるヤツを探す。あとは……。そこのゲーセンのケツもちがどこの組か調べるのもいいかもな。こっちはオヤジにやらせようぜ」
 幅をきかせているというくらいだから、ナオはそこそこ目立っているはずである。店員に聞いても知らないと返事が返ってくるのは、単に知っていると答えたあとの報復が怖いからだ。ゲームセンターに限らず、こういう類の店は多かれ少なかれ、どこかの組に必ずシノギを払っている。払っているからといってすべてのトラブルから守ってもらえるわけではないが、目に余るチンピラひとりくらいは何とでもしてくれる。
 携帯電話をもった中高校生の情報伝達力は侮れない。脅されたり嫌な思いをさせられたりすれば、そのグループはいともあっさり店を変えてしまう。そのグループから愚痴メールが回されると別のグループの足も遠退いていく。つまり中高校生が店に来なくなってしまうと明らかな減収になってしまうのだ。いずれ新たなグループが入ってくるとはいえ、痛いものは痛い。店の収入の大半は、脅されやすい普通の中高校生たちなのだから。
 にもかかわらず、ナオはその店で幅を利かせているという。やりすぎないようナオが気をつけているのか店員が遠慮しているのか分らないが、シノギを収めている組の関係者である可能性が高かった。
「昼をすぎたら短縮授業も終わるだろう。ちょい離れたとこのゲーセン行ってみて、この店から流れた客に話を聞くのもいいかもな」
「それもいいが待ってる時間が惜しい」
 そう言うと中嶋は携帯電話を取り出した。
「俺だ。今、滝はどこにいる? …………。N体大? ああ、じゃあそう遠くないな。30分以内にK駅まで来させろ。…………。無理は承知だ。パトカーに先導させるなりヘリを飛ばすなりさせろ」
 そして電話を電話を切るなり丹羽に向き直った。
「30分で滝が駅まで来る。それまでにどこの組か調べ出してくれ」
「お、おう……」
 すべての発端となった和希の電話を受けてからでさえ、すでに26時間が過ぎようとしていた。和希だろうと丹羽だろうと、有無を言わせないだけの何かが、今の中嶋にはあった。丹羽はデクノボウのように、ただ頷くことしかできなかった。

「すんませーん。ナオの兄貴にお届けものですねんけど」
 丹羽たちが話を聞いた店員が入れ替わるのを待って、それらしい封筒をもった滝がゲームセンターに現れた。いくらアタマの足りなさそうな店員といえども、1日に2度も知らない顔が「ナオ」を尋ねてくれば不審に思っただろう。レジの見えるところでは、面の割れていない中嶋がクレーンゲームを操作していた。
「ナオさん? ここんとこ見てないっすけど」
「えー? そうなん? 困ったな。俺バイトやよって、事務所はちょっと行きにくうて。ほんでこっち来てんけど」
 途方にくれたような滝の様子に店員も気の毒そうな顔をした。 『 事務所は行きにくい 』 の意味を理解している。ゲームに熱中するフリをしながらやりとりを窺っていた中嶋はそう確信した。やはり「ナオ」は組と関係があるのだ。構成員か準構成員かまでは分らないが、事務所のある場所の警察すべてに問い合わせれば、「ナオ」の素性も割れるに違いない。ひいては依頼者も割れてくる。いくら車のナンバーが判明したところで、それに啓太が乗ったという証拠はまだ見つかっていない。レンタカーを借り出した人物がシラを切り通せばそれまでなのだ。「ナオ」につながる情報は些細なことでも重要だった。
「預かれるもんなら預かっててもいいですけど」
「うーん。この前、何やここでやりよってんやろ? そのときのお客から残りを頼まれたわけやからなあ」
「ああ。んじゃ駄目っすね。覚悟決めて事務所に……」
 気のなさそうに笑っていた店員は、そこでことばを切ると何か考えるような表情を見せた。
「何や? どないしたん」
「いえ……。そういえばあの日から顔見てないかなって……」
 俺がいないときに来てるかもしれないっすけどね。そこまでを聞いた中嶋は、滝が出るより先に店をあとにした。投資金額2200円のリターンは競馬馬のぬいぐるみがふたつだった。もって帰ってやれば啓太が喜ぶに違いない。

 啓太を拉致したと思われる車のナンバーが判明し、Nシステムでの捜索が始まってしまったので、本社の会議室には少し余裕ができていた。捜索の主流が警察に移ってしまったから、と言い換えてもいいだろう。実際のところ、寺田がレンタカーを借りた人物を見つけ出さなければ、次に打つ手も決められないのだ。捨て子事件のときとは事情がまるで違う。かかっているのは啓太の生命だ。手をこまねいているわけにはいかないが、拙速から間違った方向に進むことだけは絶対に許されなかった。
 であればこそ、今は力を矯めるときだった。撓めた竹のように力を矯めに矯めて、そして一気に解放させてやるために、ときが満ちるのを待つのだ。動くべきときに動けるように。そして動かすべきときに動かせるように。そのタイミングを間違えないようにするのが参謀本部というものだった。
 それでも先刻までの緊迫感が薄れてしまったのは否めない。役目を果たしてしまったつもりの本条はもちろんのこと、尚も空気を引き締めつつ仕事を続ける大前チーフや西園寺までが、七条の淹れた紅茶を飲みながら作業をする余裕ができていた。まだ啓太の行方がわかったわけでも何でもないのだが。
 会議室にひいた電話が響き渡ったとき。部屋の奥のデスクに座った和希は、篠宮から送られてきた「ナオ」に関する経過報告を読みながら、寺田と電話で話していた。つ、と席を立った大前チーフが電話を取る。
「第8会議室でございます」
『丹羽だ。坊ちゃんはいるかな』
 丹羽警視の声が低く沈んでいた。



 ふと気がついて眼を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたものらしい。
 疲れきってしまって、手を上げることさえ億劫になっていた。このまま。座りこんだまま死ねたらどんなに楽だろう?
 だが啓太はため息をつく気力もないままに立ち上がった。寄りかかっていた木につかまりながらではあったが、それでも自分の足で立ち上がった。
―― 死ぬのはいいけど。でも中嶋さんに会えなくなるのは嫌だよ ――
 それだけは絶対に嫌だと啓太は思った。どうせ力尽きて死ぬんだったら、こんな誰にも知られない場所じゃなく、中嶋さんの腕の中がいい。最後の最後まで力を振り絞って、絶対に中嶋さんのところに戻るんだ。死ぬのはそれからだって遅くない。
 そうして啓太はよろよろと歩きはじめた。もう一度、中嶋の腕の中に戻るために。







いずみんから一言。

お久しぶりの「never」のつづきです。
これでも七啓をぶっ飛ばした分、早くupできたんですが(笑)。

啓太くんがかなりやばくなってきました。
そして比例して中嶋氏もやばくなっているようです。
今はまだ「午前中」なんで、なんとか夕方までには見つけてやりたいです。
でもすんなりとは見つからない……。



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