もういちど、この腕に 第 7 回 |
山を降りるだけなら簡単だった。ただ、坂道を下りていくだけでいい。 だが昨日、眼の前に広がったあの光景は衝撃的すぎた。見わたす限り重なりつづけていたいくつもの山。足に任せて下りていけば、あの山と山の合間に下りてしまう恐れがあった。そんなことになれば、もう自力で人のいるところに。ひいては中嶋の元に帰り着くことはできなくなってしまうだろう。間違っても 『 たまたま通りかかった人 』 に助けを求めることなどできないのだから。 ずっと以前。ほんの子供の頃。テレビで何かの映画を見ていたときだった。ジャングルのような山の中に墜落した飛行機に乗っていて、たったひとりだけ助かった女の子が川沿いに下りていき、ついには集落にたどりつくというようなストーリィだったと思う。そのときに父親がこう言ったのを、啓太はちゃんと覚えていた。 「山の中で迷ったときは、こんなふうに川に沿って下りていくと、必ず人のいるところに出られるんだよ」 だが、いくら耳を済ませてみても水の音は聞こえなかった。 フンだ。嘘ばっかり。川なんてないじゃないか。 軽口に紛らわそうとしても、もう口に出すだけの体力は、啓太に残っていなかった。 「どうしました?」 丹羽警視の口調の重さに、和希はあえて平静な口調で答えた。部下の表情にいちいち引き摺られていては正しい判断を下せなくなる。丹羽はもちろん部下ではないが、今は同じことだった。啓太が絡んでいるからこそ、和希は冷静に話を聞かなければならなかった。たとえそれが最悪の知らせであったとしても、だ。 「大変なことになった。いや。一気に解決につながると考えることもできるか……」 「竜也さん。そんな歯に衣を着せまくりみたいな物言いは止めてください」 『 解決 』の二文字に、ほんの少し肩から力を抜きながら和希が言った。 「そんなふうに言いよどむところなんか、哲也くんとそっくりだ」 「やめて欲しいですな。あんなガキと一緒にされるのは……」 「じゃあ早く教えてください。時間がもったいないです」 「分った。百聞は一見にしかず。どう説明するより見てもらう方がいいだろう。映像を送るから見て欲しい。3分後にもう一度連絡をいれる」 丹羽警視は和希の返事を聞かずに電話を切った。また、和希も返事をしようとせず、電話を置くなり七条に指示を下した。 「七条くん。丹羽警視から映像が届くらしい。こっちへも回してくれたまえ」 「映像? ああ……。これですね」 届いた映像を開いて和希のパソコンに送る。それは軽やかな七条のキィタッチでは数秒もかからない作業のはずだった。だが七条の長い指はキィボードの上で止まってしまった。隣にいた西園寺や大前チーフでさえが先を促そうとせず、モニタを見つめている。 「七条くん?」 声をかけても誰も返事をしなかった。業を煮やした和希が席を立つ。だが彼らの後ろからモニタをのぞきこんだ和希もまた、ことばを失ってしまっていた。その画面がまるでゴルゴンの首であったかのように、誰もが石の塑像と化していた。 きっちり3分後。1秒の狂いもなく鳴り響いた電話のベルが目覚めの合図だった。呪縛が解けた彼らは慌しく動きはじめた。デスクに駆け戻った和希が受話器をひったくる。だがすぐに返事はせず、デスクを回って椅子に身体を落ち着けてから「もしもし」と言った。 「見たかい?」 「ええ」 言いながら和希は顎と肩の間に受話器を挟み、苛立たしげにキィボードを叩いた。パソコンのモニタ一杯にNシステムで撮影された映像が広がった。 白い乗用車。ナンバーは確かに先刻、本条が見つけた映像と同じものだ。はっきりと、といっていい程度に映し出されたフロントシート。運転席の男に見覚えはなかった。だが助手席にいるのは ―― 。 「レンタカーを借り出したのは高岡日出夫。職業は興信所の経営者。経営状態はいいとはいえないが、まあこんなもんだろう。それほどひどいもんでもない。助手席の方は……。坊ちゃん。あんたの方がよくご存知だ」 「ええ。よく知っていますよ。……叔母の夫ですからね」 冷たい声をしている。画面に映った久我沼元副理事の顔を見ながら、和希は自分でもそう思った。 刑事というのは歩いてナンボの商売である。真夜中だろうと明け方だろうと、正月でも結婚記念日でも、事件の解決に必要とあれば歩かなければならない。警察に入って9年。「おまわりさん」から「刑事さん」に呼び方が変わって3年半。すでに何足もの靴を履きつぶした寺田であったが、それでも夏の聞き込みは辛かった。真冬の夜中の張り込みも辛いが、それでも重ね着やほかほかカイロでなんとかしのぐことはできる。だが夏の暑さだけはどうすることもできなかった。服を脱ぐにも限界があり、脱げば脱いだで容赦のない日差しはじりじりと肌を焼きつくそうとする。そしてこの国特有の湿度の高さは流れる汗を蒸発させてくれず、ただ不快さだけを増幅させた。 いつもならペアを組んだ同僚と愚痴のこぼしあいになるところである。だが今日はそんなことはなかった。愚痴る相手がいなかったからではない。啓太のために歩いているからだ。自分が歩くことで啓太を見つけてやれるなら、今の寺田はどこまででも歩ける自信があった。 2年近く前の秋の終わりに寺田は啓太と出会った。鈴菱の御曹司に連れられた彼はいかにも頼りなげに見えたが、恋人を窮地から救いたいという思いはストレートに共感できた。そして結果として恋人を陥れたかたちになった女と向き合ったとき、寺田は啓太が相手を殴ろうが蹴ろうが罵ろうが、少しばかりならもみ消してやるつもりにさえなっていた。ところが啓太ときたら静かな口調で、女が置き去りにした赤ん坊の代弁をしただけだった。そして心に染みとおるようなそのことばは、頑なだった女の心を解かしたのだった。 あのときの恋人とは今でもうまくいってるんだろうか。確かふたつくらい年上だったはずだけど。そんなことを思いながら、寺田は手にした携帯メールに視線を落とした。大前チーフと紹介された女性から届けられた資料は、土地鑑のほとんどない寺田が移動しやすいよう細かい配慮がなされていた。ここへ来る前にレンタカー営業所へ行ったときもそうだったが、こうして歩いているとどれくらい行き届いているかがよく分る。おかげで迷ったり戸惑ったりといった無駄な時間を使わず、まっすぐに目的地に着くことができた。うんざりするようなアスファルトの照り返しの向こう側。やや古ぼけはじめた殺風景なビルの3階に目的の高岡中央リサーチはあった。 おにぎりや惣菜の入ったコンビニの袋を下げて、女はとぼとぼとアパートへの道を歩いていた。自分の昼食用とタカオの夕食用に、バイト先のコンビニで売れ残った弁当を貰ってくるのだが、今日はあまりいいものが残っていなかったのだ。タカオは洋食系の幕ノ内が好きなのにひとつも残っていなかったばかりか、和食系のものさえ同僚に先を越されてしまっていた。パスタや丼ものがいくつ残っていようと、アパートには電子レンジがないので貰って帰っても食べられない。 しかたがないのでおにぎりと惣菜を何種類かもらってきたが、タカオはおかずが何種類もないと機嫌が悪いのだ。きっとこれでは気に入らないだろう。それが分っているから、せめてタカオの分だけでも弁当を買いたかった。でもぎりぎりの生活費で、まるで綱渡りのように日々を暮らしている女にとって、480円の弁当はどうしても手の出せないものだった。 気に入らないとタカオは暴れるかもしれない。そしてまた風俗店で働けと言われるのだろう。今やっているのは早朝からのコンビニのバイトと夕方からのファミレスのバイトのふたつだ。風俗店で働けば、きっと半分の時間で倍以上の収入になるに違いない。それでも……。 「タカオ……。あたし、フーゾクだけは嫌だよ……」 重い足取りでアパートに戻ると驚いたことにタカオがいた。布団を引っかぶっていたのが女の気配に顔だけは出したものの、起き上がろうとはしなかった。 「えっ!? タカオどうしたの? 顔色が悪いよ?」 「どうもしねえよ。……どうもしねえ、って……」 とてもじゃないが、どうもしねえという口調でも顔色でもなかった。布団の上から取りすがった女がさらに問いかけようとしたとき。アパートのドアが叩かれた。 「はーいっ」 「すみません。野村隆雄くんはご在宅でしょうか」 「あっ、はいっ!」 タカオ……? 振り向くとタカオはまた布団を引っかぶってしまっていた。しかたなしに女が立って行ってドアを開ける。背の高い、端正な顔の男が立っていた。 「突然お邪魔して申し訳ありません」 「あの……。タカオに何か?」 「ああ。ご心配なく。ちょっとこの写真を見てもらいたいだけなんです」 「でもタカオ……。今ちょっと気分が悪いらしくて」 「では出て来なくてもかまいません。このノートパソコンをお預けしますから、野村くんに見てもらってください。お願いします」 相手の男が意外なくらい礼儀正しかったので、女は思わずふたを開けて差し出されたパソコンを受け取ってしまった。車のフロントシートに中年の男がふたり座った、何の変哲もない写真がモニタに映し出されていた。こんなものをどうして? と首をかしげながらも、聞き耳を立てていたに違いないタカオにそれを見せる。だが布団の端からちらっと画面を見たタカオは、女の手からパソコンをひったくると玄関先に駆け寄った。 「こいつらだ。こいつらだよっ!! こいつらが伊藤を呼べって言ったんだよっ!!」 「証言できるか?」 「証言でもなんでもしてやるよっ!」 だから逮捕だけはしないでくれよぉ……。 その夜。バイトを休んだ女は、小さな子供のように震えるタカオの身体を、一晩中抱きしめていた。 今どき、エレベーターもないビルは借り手がつかない。最新の設備を誇る大手のビルでさえ空室を埋めるのに苦労しているのが現状なのだから、管理人さえ常駐していないビルではなおさらだ。だがこの高岡中央リサーチの入っているビルはどうやら違うらしい。事務所がダミーでないか確認するために集合ポストの前で足を止めた寺田は、すべてのポストに名前が入っているだけでなく、突っ込まれたチラシがあふれているポストもないのを見て、少し意外に思った。もしかすると、設備の悪さや建物の老朽化の程度が許容範囲内であり、逆にそれからくる家賃の安さが、借り手にとって値頃感があるのかもしれなかった。 階段を上がって左手すぐ。高岡中央リサーチと書かれた安っぽい、ガラスのはまった木製のドアを開けると、事務服を着た女性と目があった。彼女がいる机の向こうは、これまたガラスのはまったスチール製の衝立で仕切られていて、中を伺うことはできない。だが別に話し声が聞こえてくるという訳ではなかったので、依頼人は来ていないようだった。 「すみません。警察の者ですが、高岡所長さんとお話をさせてください」 ドラマじゃあるまいし、探偵事務所といえどもそうそう事件に巻き込まれたりするものではない。びっくりするような眼で警察手帳の写真と寺田の顔を見比べていた事務員は、やおら立ち上がると、衝立の向こうへ走りこんだ。 何を話しているのかしばらく待たされた。どうやらここはビル全体の空調設備というものがないらしく、壁に取り付けられたパッケージ・エアコンが音を立てながら冷気を吐き出している。その風が直接あたる場所に移動し、文明のありがたみを享受していると、ひと目で高岡本人と分る男が現れた。 「警察がまた、いったい何の用ですかな」 安っぽく座り心地の悪いソファセットで寺田は高岡と向き合った。驚いたフリをしているが、その実、まるで驚いていないのは一目瞭然だった。突然の警察の訪問にもかかわらず、妙に余裕たっぷりなのが寺田の気に障った。 「8月31日のことなんですが。港区内のレンタカー営業所で乗用車を借り出されましたね」 「はい。依頼者と一緒に移動する必要のあるときには、いつもレンタカーを利用するようにしています」 「ここと港区とではずいぶん離れているように思いますが」 「そこが依頼者と落ち合うポイントに近かったので。ここから借りていったのでは、渋滞に巻き込まれたときに時間が読めなくなりますからな」 何を聞いても高岡は淀みなく答えた。職業柄、寺田は今までにも「探偵」と名のつく人間に話を聞いたことが何度かあったが、ここまですらすらと答える男ははじめてだった。よほど保身に汲々としていて、足元をすくわれないよう、普段から気をつけて立ち回っているようだった。 「その日の依頼について話してもらえませんか」 「申し訳ありませんが、秘匿義務がありますんで」 「依頼者について聞こうとは思っていません。久我沼啓二だと、すでに調べはついています」 これは寺田がさりげなく投下した爆弾だった。誠実に答えているように見せかけているだけの高岡に、無駄なことはするなと通告しているのだ。 久我沼という男を寺田は知らない。だがNシステムの情報を知らせてきた和希の口調は、聞いている寺田の方までが苦しくなってくるようなものだった。久我沼についての情報を、和希は一言一言、搾り出すように伝えてきた。自分と久我沼との確執が原因で啓太を拉致させてしまったのだと、和希は後悔と苦悩に苛まれていた。 職業や立場の違いはあっても、寺田は和希と気があっていた。すれ違いばかりでさほど機会があるわけではないが、キャットクロウでたまに飲む酒はとても気持ちのいいものだった。啓太が成人すればキャットクロウでお祝いの酒を3人で酌み交わすつもりだ。であればこそ、寺田は和希を救いたかった。啓太を早く見つけてやりたかった。その為にはこんな男と、つまらない時間を使うことなどできなかったのである。 それまであたりをやわらかくしていた寺田が刑事としての本気を見せはじめた。それは高岡に十分伝わったようだ。保身が第一の男は、自分の身が危ないと思えばいくらでもぺらぺら喋ってくれるものだ。 「ある男子高校生と話がしたいのでセッティングしてくれと頼まれました。学校の寮へ戻るという彼を待って車に乗せ、依頼人の指示で晴海埠頭へ行き、そこでふたりを下ろした。後のことは知らない。車を返しに行ってそれで終わりだ。レンタカーの事務所に返しに行った時間の記録が残っているはずですよ。走行距離もね。それを確認してもらえれば、あたしの言ってることが嘘じゃないことくらい、すぐに分りますよ」 その作業はすでに終わっていた。晴海云々こそ初耳であったが、大筋はNシステムのデータとほぼ一致している。だが寺田はそんなことはおくびにも見せず、「じゃあもう少し詳しいことを話してもらいましょうか」と言った。 一度K駅に回って中嶋を拾うという遠回りをしたのは、和希自身、時間の猶予が欲しかったからだ。 何が起こったのか分らなかった。これを「久我沼の逆恨み」と言いきってしまうのは簡単だ。簡単で、そして楽でもある。だがそれが啓太にもたらしてしまったことを考えれば、絶対に逃げることは許されなかった。 「久我沼は自宅にいますかね」 丹羽警視の差し向けてくれた刑事が気を遣うように聞いてきた。バックミラーに映った和希の様子が、よほど酷く見えているのだろう。顔色を読むのが刑事の特技だとはいえ、こうも簡単に読まれるようでは経営者としては失格である。情けなくて笑ってしまいそうだった。 「ああ。いると思うよ。さっき大前くんが確認してくれていたから」 すべての役職を退かされたのだ。どこへも出かけていく場所はない。地域に根を張る女性と違い、仕事しかしてこなかった男というのはそういうものだ。そして和希が流させたわけではないのだが、いつの間にか業界内に、久我沼が鈴菱を怒らせたと言う噂が流れていた。それは根拠のない噂であるがゆえに、実際のものよりさらに激烈な内容となっていた。久我沼を雇おうとする企業は、おそらくはもうどこを探しても見つからないだろう。 だがそれが久我沼を追い詰めたのだとしたら。自分への恨みを啓太に向けさせてしまったのだとしたら。 今の和希にはまだ、表情を取り繕うだけの余裕は持てていなかった。 スポーツバッグが重くて仕方がなくなっていた。休憩する度合いが頻繁になり、そのたびに中のものがひとつずつ減っていった。 最初になくなったのは血だらけになっていたポロシャツや下着類だった。それらはひとつずつ、進む方向に迷ったときに、目印になるよう枝に引っ掛けてきた。 夏休みの宿題もいつの間にかなくなっていた。捨てたつもりはなかったので、どこか空洞になっているところを見つけて、そこに置いたのかもしれない。あとで取りに来ればいい。置いたときには、きっとそう思っていたのに違いない。……思い出すことはできないが。 空になってしまったペットボトルも、今となってはお荷物だった。どこかで水が見つかったとしても1本あれば十分だ。そう思って2本を捨てた。中身のない500ミリのペットボトル2本が重い。それが今の啓太だった。 |
いずみんから一言。 さあ、どうしましょう。啓太くんはとんでもない山の中にいるというのに、 車は海へ行ってしまいました。 そして啓太くんはくまちゃんドリンクを全部飲み干してしまったようです。 山の中とはいえ、まだ夏と言ってもいい季節です。 脱水症状が出るのも時間の問題になってきました。 当然このあとの展開は分かっているし、これ以降の話を何本も書いている にもかかわらず、手入れの為に打ち出しを読んでいて、はらはらどきどき しちゃいました。 ふと気がついて、自分で自分に「あほか」とツッコミを入れました(笑)。 それにしても、中嶋氏の出番がなかったような……(焦)。 |