もういちど、この腕に

第 8 回




 実家に帰った気楽さで、つい朝寝坊をしてしまった。
 昨日は夕方から同窓会に行って、久しぶりにクラスのみんなや先生たちに会った。つい楽しくて三次会まで行ってしまって。家に帰ったらかなり遅い時間なってしまっていた。
 実家に俺用のパソコンがないから、さすがの中嶋さんや王様も課題を送ってはこない。でも受験まであと半年を切っているんだ。いくら俺だってそのまま寝たりなんかはできなくて。中学のときの問題集を出してきて全部ちゃんと解けるかをチェックしてたら、3時過ぎくらいになってしまっていた。それに気づいていた母さんが起こさなかったので、飛び起きたときにはもう10時を半分以上回ってしまっていたのだった。中嶋さんのマンションにいたらここまで寝過ごすことってないから、やっぱり実家ってのんびりするんだろうなあ。
 それからご飯を食べて学園に向かった。母さんは「お昼を食べてからにしたら?」なんて言ったけど、朝昼兼用って言うよりはほとんど昼食ってノリのご飯を食べたばかりだったから、いらないと断わって家を出た。
 バッグの中には矢島に頼んで買ってきてもらったペットボトルのお茶が3本。これを見せたときの和希の顔が楽しみだ……。



 いわゆるケツもちと呼ばれる組は分ったが、それでも「ナオ」は見つからなかった。ナオが自分の名前から来た呼び名ではなかったからである。
 松之尾組で実力をつけはじめていた直方良助が「見習いに」と言ってチンピラにもなりきれない少年を事務所に連れて来た日。間の悪いことに抗争中の組から送り込まれた刺客が若頭を狙った。そして直方は盾となって命を落とした。以降「直方の連れてきた」が少年の名前につくようになり、いつの間にか省略されて「ナオ」と呼ばれるようになっていた。
 直方の死に方もあって、最初はナオも目をかけられていた。だがこういう組織は厳しい。家でも学校でも社会でも、甘やかされるだけ甘やかされてきたモヤシのような人間では準構成員にさえなれず、結局は鉄砲玉として使い捨てられるのが現実である。その典型のようなナオにとって「目をかけられた」のは単なる負担でしかなかった。組織の中で上がっていくための基本姿勢は、一流企業のエリート営業マンだろうと暴力団の構成員だろうとさほど変わるものではない。どちらも生半可な覚悟では勤まらないということだ。
 そして命のやり取りをしている分、暴力団の方がよりシビアだった。何の覚悟ももとうとせず、かけられた目を疎ましく思うことしかできないナオを幹部たちが見限るのに、どれほどの時間もかからなかった。今は同じく鉄砲玉候補の先輩を「アニキ」と呼んでつるんでいる。
「アニキ」と違い、お茶くみさえ満足にできないナオであったが、組としても何もさせずにタダ飯を食わせるわけにもいかない。車の免許を取ったというので試しにデリヘル嬢の送り迎えをさせてみたところ、適度にプライドをくすぐれるのが良かったのか、送り届けてしまえば2時間ばかり遊んでいてもよかったからか、意外とまじめにこなした。「エラソーにする」とデリヘル嬢にはものすごく不評であったが。
 K駅の近くにはときどき利用するお得意さんが何人かいて、そこにデリヘル嬢を送り届けたあと、時間つぶしをするのにゲームセンターを利用していたわけだ。シノギを払っている組の関係者とあれば、店の方でも「出せ」と言われるだけゲーム・コインを出すしかない。ナオがそこのゲームセンターに顔を出すのは、タダで時間つぶしができるという、それだけの理由に過ぎなかった。地元に何の縁もなく、名前さえ違うナオを警察の情報から手繰ろうとしても、それは最初から無理な話なのだった。

「誤解を解きたいのだと、依頼者はそう言いました」
 高岡中央リサーチの所長、片岡日出夫は、寺田刑事の質問にそう答えた。
「なんでも副理事の職をなくしたそうですな、あの人は。でもまあ、それは自分のしたことだから仕方がない、と。ただ、そのときに巻き込んでしまった生徒については謝りたいし、誤解されたままでいるのがつらい。だからその生徒と直接話す機会を作って欲しい。それが今回の依頼です」
「話すだけなら学園の寮でも対岸の街でも良かったのでは? わざわざ埼玉まで行って車に乗せる必要があったんですかね」
「ああ……。理事長の邪魔が入らないようにしたんですよ」
 高岡は露骨に顔をしかめ、そしてまるで内緒ごとでも話すかのように身を乗り出して囁いた。
「副理事を失脚してから2年近くになるそうなんですが、その間、その生徒と話ができなかったのは理事長が邪魔をしていたからだそうなんですよ。このままだと誤解されたまま卒業してしまう。この夏休みが最後のチャンスなのだと言って。そう……、結構焦ってましたな」
「なるほど」
 何が邪魔をしているものか。謝りたいなどと言ってるが、そんな殊勝な男なら鈴菱さんがあんな声を絞り出すはずがない。鈴菱さんは本当に苦しんで自分を責めていた。あれは絶対に演技などではなかった。そう思いつつ寺田は先を促した。
「どうやってアプローチをしたんです? 彼がその日に学園に戻るなんて誰にも分らないはずですが」
「新学期ぎりぎりに同窓会をやらせればいいと依頼者が言ったので、そのようにしました。確かにぎりぎりにやると、学園に戻る日は限られてきますからな。まあ、いい方法かもしれないと思いました」
「同窓会をさせるといっても、でもいったいどうやって……」
「それも依頼者が考えていました。通っていた中学近くのゲームセンターをあたれば、その生徒を知っている子に行き当たるだろうと。ついでに言えば組関係からあたるように指示したのも依頼者です。こっちの方は今ひとつ意味がわかりませんでしたけどね。それでも指示には従わないと」
 何もかもが依頼者の指示で動いていた。自分はそれに従っていただけ。
 どうやらこの高岡という男は、すべての責任を依頼者である久我沼にひっかぶせるつもりのようだった。仕事柄、寺田は今までに何人もの、所謂探偵と呼ばれる人間と会ったことがある。雲を掴むような依頼から超人的な働きをし、結果を導き出すのが小説の中だけの絵空事であることくらい、百も承知である。大抵の探偵は自分に火の粉がかからない距離を保って仕事をしようとするものなのだ。探偵とは生計を立てるための職業であって慈善事業ではないのだから、それも仕方のないことだと思う。
 だが、それをよく承知している寺田の眼から見ても、高岡の言動は度を越していた。個人的なトラブルから高校生を拉致した久我沼にも怒りを覚えた寺田だったが、とことん責任を回避しようとする高岡には反吐が出そうなくらいの嫌悪感を感じた。今回の伊藤くん失踪は、こういう身勝手な大人たちが起こした事件なのだと改めて思う。くちびるがからからに乾いてしまった寺田は無意識にテーブルに手を伸ばしかけて、茶を出してもらっていなかったことに気がついた。

 篠宮の持ち歩いていたパソコンに届いた映像を見たとき、中嶋は和希のことなどこれっぽっちも考えなかった。考えたのは自分のしたことだけだ。もし久我沼の追い落としに自分が関与せず、丹羽だけ、あるいは丹羽と篠宮が動いていたとしたら、結果は同じでも方法はずいぶん違ったものになっていただろう。そうすれば久我沼も逆恨みなどしなかったのではないか。基本的に陰性の自分と違い、陽性の丹羽や篠宮のやり方は公明正大なものであるからだ。そういう方法がとれていれば。誰もが ―― 久我沼本人でさえもが ―― 納得できる方法がとれていれば。啓太は今頃学園で授業を受けていたはずだ。
 そう思っていたから中嶋は和希の車に乗り込んでも、恨み言など口にせず、黙って和希の謝罪を聞いていた。ただ、何故和希が自分に謝るのか全然理解できないままに、顔をじっと前に向けていた。和希が啓太の失踪に責任を感じているなどと思いもしていなかったのである。
「久我沼は一応、任意同行という形で引っ張る。丹羽警視の部下がすでに自宅の方に先行してくれている。警察であれ自宅であれ、我々も話を聞けるよう取り計らってくれることになっている」
「……ああ」
「寺田刑事の話だと、探偵の方は事なかれ主義の、言われたとおりに動くだけの男らしい。啓太を車に乗せたのは認めたが、久我沼の指示でふたりを晴海の倉庫街でおろしたというんだ。まあそれはNシステムでの追跡と、レンタカー会社に残っていた走行距離の記録とから、ほぼ事実だと推定はされるわけなんだけどね」
 中嶋の顔がわずかに和希の方に向けられた。不審そうに眉がひそめられている。
「晴海で何をするというんだ」
「分らない。そう言われたからそこでおろした。それだけだ」
 中嶋が露骨に舌打ちをした。それは中嶋が、和希の車に乗り込んで初めて見せた感情だった。
 
 所轄の古参刑事である松村と角谷は、ぶらりといった感じで松之尾組の事務所に踏み込んだ。
 素人が組事務所へ乗り込んでも話は聞き出せない。叩き出されはしないかもしれないが、適当にあしらわれて送り出されるのがオチである。それは自分が行っても同じことだ。高岡から組のことを聞き出した寺田刑事が、そう言って最寄の所轄署に緊急の依頼を出したのだった。どこの警察でも組の内情に詳しい刑事がいるものだ。そういう刑事が聞きに行くのがいちばん早く、そして正確な情報がつかめるからだ。一応はまだ私的な捜索の延長である以上、あまりあちこちに頼るのはまずいのではないかと思いつつ、和希は寺田の好意に甘えざるをえなかった。寺田の言葉ではないが啓太の体調が心配だった。
「ちょいと邪魔させてもらってるぜ」
「おっ。これは松村のダンナ。なんですかね。わざわざこんなところまで」
「ああ。お前んとこにナオっていたか、と思ってな」
「ナオですかい?」
 余計なことを喋らせないようにしたのかいつの間にか下っ端どもがいなくなり、入れ替わりに出てきた若頭代理補佐は、ナオの名を聞いたとたん、なんともいえない嫌そうな顔をした。
「まあ……。いるにはいるんですけどね。ほら。いつも昌一とつるんでる、あいつですよ」
「ああ。あれがナオか。ちょいと話を聞かせてもらえるか」
「あの馬鹿がまた何か?」
「いや。したのはトーシローさんだよ」
 松村があっさりと否定した。
「ただな。場所がK駅前のゲーセンだったんだ。どうもナオが現場を目撃してたらしいんでな」
「ははあ……。あたしもこの世界長いですけど、そういう形でサツのダンナのお役に立てる日が来るとは思いもしやせんでしたぜ」
「はっはっは。まあ長く生きてるといろいろあるやな。……で? ナオはどうした」
「それが……。分らねえんでさ」
「なに?」
 松村と角谷の目が光った。ナオを善意の第三者にしたてあげたのは、寺田から聞いた一連の流れから組は関係していないと判断したからだ。それでもナオが絡んでいる可能性は高いと思っていた。その判断は間違っていたのだろうか。もしナオが組の指示で事件に絡んでいたとしたら、すでに高飛びしたか、下手をしたら消されている場合だってある。だがこれはそれほど大きなヤマだったろうか? ところが若頭代理補佐が吐き出したのは意外な言葉だった。
「こないだっから姿を見せねえんですよ。昌一とふたり、ぷっつりと」
「その 『 こないだ 』 ってのはいつだ?」
「1日でしたな。前の日に無断で出かけやがったんで、奴らの面倒みさせてるのにたしなめさせたんですがね、まあそれっきりというか……」
 うんざりしたように吐き出したため息は、その言葉が嘘ではないと告げていた。

 久我沼の自宅前に白い車がとまっていた。何の変哲もない乗用車である。だが運転席に残っていた男と和希に同行してきた刑事とが目礼を交しあっていたのをみて、和希はそれが警察の車であることを知った。では久我沼はまだ家にいるのだ。まだ久我沼にどうやって向き合えばいいのかわからない和希は、少々重苦しい思いを持て余しながら呼び鈴をならした。
 出てきたのは家政婦ではなく、自分と同じような青い顔をした叔母だった。今、いちばん見たくない顔だった。久我沼本人が招いたこととはいえ、叔母の夫を犯罪者として摘発しようとしているのだから。だが和希はせめてもの礼儀として、目をそらせることだけはしなかった。
「和希さん……?」
「すみません。久我沼さんはいますね」
「え。ええ……。いるわ。でも……」
「失礼します」
 叔母の脇をすり抜けて和希が家の中に入る。慌てた叔母が「あの、主人は今……」と言いかけたのを、和希のすぐうしろにつづいていた丹羽警視の部下が「存じております」と遮った。玄関先の応接間に入るまで、和希はもの問いだげな叔母の視線を背中に感じていた。
 それから早く逃れたくて、心のうちとは裏腹に、ドアは無造作に開けた。するといきなり久我沼と眼が合った。
 久我沼は決して馬鹿な男ではない。適度な馬鹿であれば副理事長というポストに満足し、立派に職責を果たしたのに違いない。久我沼にとって、そして何より鈴菱にとって不幸だったのは、久我沼が中途半端に切れる男だったということだ。だからこそ中途半端な野心を抱き、自分が不当な扱いを受けていると不満を抱いたときに、つまらない誘惑に引っかかってしまったのだった。
 あれから2年が経とうとしている。だがその2年は、ただ単に久我沼の自分勝手な恨みを増幅させるだけの時間に過ぎなかったのだと和希は悟った。和希と眼が合った久我沼は、一瞬の間のあと、いとも満足げな笑みを顔全体に浮かべたのだ。和希がここへ何をしに来たのか、十分に理解している笑いだった。
「ふっ、ふっ、ふ……」
 最初は含み笑いだったのがだんだんと高笑いになっていった。先に来て話を聞いていた刑事が、呆気に取られたように久我沼と和希の顔とを見比べる。と、いきなり久我沼が立ち上がった。和希との間合いを詰めてその眼をのぞきこむ。
「はははははははははっ。今頃あのガキは中東へ向かう船の中だ。ガキとはいえ日本人の肌は段違いに滑らかだからな。さぞかし好事家どもが値を吊り上げてくれるだろうよ」
「……なんだと……」
 怒気を含んだ中嶋の声に、調子に乗った久我沼がさらに追い討ちをかける。
「オークションさ。裸にして舞台に上げるんだ。縛り上げたりはせんだろうな。傷がついたら値が下がる。だがライトは……」
 和希の隣で中嶋が軸足を移動させる気配がした。が、一ヵ所に人間が集まりすぎていたのだろう。和希の拳が炸裂するのが一瞬だけ早かった。生まれてはじめての渾身の一撃に、久我沼の大きな体が派手にうしろに倒れこむ。まるで糸が切れたあやつり人形のようだった。
「遠藤っ!」
「駄目だよ、中嶋くん」
 怒りのはけ口を取り上げられ、思わず声を荒げた中嶋に、和希は何も言わせなかった。そのくらい冷たい眼で、和希は久我沼を見下ろしていた。中嶋には一瞥さえしない。
「こんな男、君が殴るだけの価値はない。私で十分だ」
 殴り倒されて尚、部屋の中には久我沼の笑いが響きつづけていた。



 向こうに着いたらちょうどいい時間だから、バスに乗る前に何か食べて行こう。久しぶりにロックスのハンバーガー食べたいかな。あそこのバーガー類はホント芸術品だもんな。中嶋さんが黙って食べるんだもん。ハンバーガーをぱくつく中嶋さん……。駄目だ。思い出したら笑っちゃう。ってか笑いが止められないや。
 ああ、そうだ。和希も誘ってみよう。電車に乗ったらメール書いて、どこにいるか聞いてみることにしよう。うまくいけば東京駅から一緒の新幹線で……。ってのはさすがにちょっと無理か。和希って忙しいから。もし一緒にロックスに行けたら、バーガーとコーヒーは俺のおごりにしよう。お疲れ様って意味をこめて。
 ……あれ? なんだよこの車。危ないじゃないか。いきなり道をふさいでさあ……。







いずみんから一言。

相変わらず中嶋氏の出番がほとんどありません。
せっかく出てきても和希にいいところをもっていかれちまうし。
困ったもんだ。
この話を考えたのはもう何年も前なのですが、考え始めた当初から
山の中を彷徨う啓太くんと久我沼を殴り倒したときの和希の台詞は
決まっていました。

次回は佐野さんが出てくるといいんだけど。
そうしたら中嶋氏にも見せ場を作ってやれるかも?
それにしても、オークションにかけられる啓太くん。
思わず涎が出そうです。

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