もういちど、この腕に

第 9 回




 思わず足を止めてしまった俺の前でドアが開いた。中から出てきたのは……。忘れろったって忘れられない顔。久我沼だった。無意識のうちに睨みつけていたのかもしれない。
「ふん。相変わらず可愛げのないガキだ」
「……俺に何か用ですか」
「用がなくて、誰がわざわざこんなところまで来るものか。……まあいい。乗れ」
 乗れと言われて、はいそうですかと言える関係じゃない。ましてや用があったって聞かなきゃいけない義理はない。車の脇をすり抜けるか、それとも回れ右をして家に戻るかを考えていたら、見抜いたみたいに久我沼が言った。
「素直に乗らなければ、おまえの大切な理事長様に迷惑がかかるぞ」
「何……っ」
「何も知らない家族にだって、災厄が降りかかるかもしれん。たしか妹がいたはずだったな」
 汚い。くちびるを噛む俺の前で、久我沼がにやりと笑って見せた。



 世の中には阿呆な金持ちがいるもんだ。
「ナオ」こと近見紀親とその「アニキ」である田中昌一はそう言って笑った。
 K駅周辺のゲームセンターを仕切っている人間を探していると組の方に連絡が入ったのは8月の中旬だった。しかるべき相手ならそれなりに応対もするが、素人をいちいち相手にするのも面倒だった上層部は、昌一とナオに会いに行かせることにした。もともとたいしたシノギでもない地方のゲームセンターには彼らしか行っておらず、ある意味、妥当な判断といえた。
 しかし近見も田中もそうは取らなかった。自分たちが認められたからこそ仕事を任されたと思ったのだ。指定された時間に指定された場所に行くと、つなぎを取ってきた男から背の高い男を紹介された。その男の用件とは、ある男子高校生を知っている同窓生を探し出すこと。そしてもうひとつ。
「へっへっへっ。馬鹿っつーのはあーゆーオッサンのことをゆーんですよね」
「マジであのガキ、中東に売り飛ばしたと思ってんだろか」
「思ってんじゃねえすか? 『 手数料 』 だっつったらあっさり300万も払いやがったし」
「んなオッサンが頼んだくらいで組が動くか、っつーの!」
「でっすよねー!」
 依頼は受けたが、チンピラにさえなれない彼らにそれを処理するだけの能力などあるはずもなかった。早い話が 「 誰かに相談しよう 」 とさえ思いつけなかったのだ。事務所で見かける先輩たちはすでに立派な構成員で、鉄砲玉候補のお茶くみが声をかけようとすれば一睨みされておしまいという事情もある。もうひとつの依頼である野村はすぐに見つけ出したものの、人間ひとりを海外に売り飛ばす方法もルートも知らないふたりにできたのは、ただ 「 売り飛ばすフリをする 」 ことだけだった。
「中東の石油王っつったってよ、カワイコちゃんならともかく、あんなガキいらねーって」
「でも、向こうでオークションにかけるから誰が買うか分らねえっつったら、えらく感心してくれたっすよねえ」
「ってか、受け渡しを晴海の倉庫街にしたってのが、シューイツ?」
 馬鹿笑いをしたふたりはタクシーに乗り込んだ。もらった300万を山分けにし、川崎のソープで使い切るつもりだった。彼らの頭の中には今の楽しみしかなかった。あとのことも先のこともまわりのことも、何ひとつ見えてはいなかった。

 動かなければいけないのは分っていた。すぐに行動に移さなければならないことも分りきっていた。それでも動けなかったのだ。和希も。そして中嶋も。
 時間にすれば数分にも満たなかっただろう。だが中嶋はともかく、ビジネスという戦闘の第一級指揮官である和希までもが数分も動けなかったのは、久我沼が応接間に残した瘴気のようなものに囚われてしまっていたからかもしれない。それはねっとりと彼らにまとわりつき、絶望の底なし沼に引きずりこもうとしていた。
「…………啓太、の……」
 それが和希の耳に届いたのは、応接間の中が異様なほどに静まり返っていたからだった。それくらい小さな、中嶋に似合わない、途方にくれたような呟きだった。いつもは自信にあふれた中嶋が、19歳という年相応の子供になってしまったような声を絞り出していた。
「ご両親に……。なんて、言えば………………」
「……いや…………、まだだ」
 久我沼が連行されたあと、へたりこんでしまっていた和希がのろのろと立ち上がった。まだ膝ががくがくしていて、両手を膝について支えていないと、またへたりこんでしまいそうだった。
「まずは状況を確認しないと……。いたずらに心配させるだけだ」
「ああ。そう。そうだな……」
 和希の意見に賛同したというより、啓太の両親に知らせる時間を遅らせる理由ができたことに、中嶋は同意を示した。状況の確認。そうだ。啓太がどこからどういうルートで連れ出されたのかを考えなければならない。そうすれば最終目的地も予想がつけられる。久我沼の話はあまりに大雑把すぎて、それがどこの国なのか見当さえつけられていないのだ。
 考えろ! 自分にそう言い聞かせる中嶋の視線の先で、和希が携帯を取り出した。
「……ああ、そうだ。すべての船会社、及び商社に緊急の協力を要請してくれ。もちろん現地も含めて、だ。……いや。外務省には岡田を行かせてくれ。電話じゃ埒があかない。時間の無駄だ。それと海上保安庁に……」
 聞くともなしに聞いていると、それが本社の大前チーフに出している指示だとわかる。政府に商社、船会社に協力を要請している。航空関係がないのは久我沼の言葉を信じたわけではなく、ただ単に現実的でないからだろう。船に比べると航空機は出国させるのが難しいからだ。仮にうまく荷物の中に押し込めたとしても、そうなれば啓太はすでに日本にいないだろうから、航空会社ではどうすることもできないのに違いない。
 どこを探せば啓太を見つけてやれるのか。方法さえ思いつけずにいる中嶋の目の前で、同じように呆然としていたはずの和希はすでに行動に移していた。
 中嶋には和希のようなコネも人脈もなければ動かせる組織もない。ましてや権力などあるはずもない。丹羽のように海外の警察に捜査を依頼できる父親も持たない。そして西園寺のように王族や大使クラスの人間との交友もない。少しばかり裕福な両親を持つ、ただの大学生にすぎないのだ。眼の前に突きつけられた容赦のないその事実に、中嶋は今、己の無力さを思い知らされていた。

 受話器を掴んだまま、西園寺はただ立ち尽くしていた。二言、三言はことばを交わしたものの、あとは相槌はおろか頷くことさえできずにいる。とっくに切れてしまっていた受話器をようやく下ろしたとき、不審に思って傍に来ていた七条が声をかけた。
「どうしました?」
「…………」
「郁に受話器を押しつけるなり、大前チーフは飛び出していってしまうし。いったい何が……?」
 顔をあげた西園寺は、だがそれに答えようとはしなかった。時間がもったいなかったのである。いずれ数分程度の時間の隙間は必ずできる。何があったかはそのときでいい。西園寺は心の重さを振り切るように髪を一振りすると、蒼ざめた顔をまっすぐあげた。
「臣」
「はい」
「啓太の手配書……。そうだな、写真を入れて身長、体重、髪や瞳の色等の特徴、それにここの連絡先等も書きこんだもの。それを英語とフランス語で作成してくれ。英語版ができたら本条さんに回して日本語版を作ってもらう。ああ。アラビア語がいるからわたしにも回してくれ。これは手書きでつける」
 アラビア語と聞いて七条の片眉が跳ね上がった。本条も不思議そうな顔を向けている。もちろん西園寺は彼らの表情に気づいていたが、口をはさむだけの余地を与えなかった。
「啓太の顔写真を中心に4か国語でレイアウトだ。いいか。10分以内に仕上げろ」
「10分ですね? わかりました」
「すみません、本条さん。急ぐんです。ご協力お願いします」
「あ? ああ。わかった。日本語版を作ればいいんだね」
「データのコピーを全員のパソコンに転送。打ち出したものをとりあえず300部コピーだ」
「了解しました」
 ただ単に「中東」といわれても漠然としすぎていて対応を絞り込むことができない。だから指示を出し終わった西園寺は最悪のケースからはじめることにした。もし。もし本当に啓太がオークションにかけられることにでもなったら、何が何でも競り落とし、買い戻さなければならない。絶対にしくじることは許されないのだ。
 資金の心配はしていなかった。鈴菱で数億程度は用意するだろうし、西園寺も中嶋も数千万なら出せる。おそらく岩井もそのくらいは出すだろう。だがそのためにはオークションの情報を入手しなければならなかった。知らない間に終わっていました、では済まされない。そんなことをしたら、二度と再び啓太を連れ戻せなくなってしまう。
 そして西園寺は中東にいる知人のもとに、端から電話をかけはじめた。

 事情聴取も何もあったものではなかった。取調室に入ったとたん、久我沼は堰を切ったように喋りはじめたのだ。和希から、いちばん大切にしているものを奪えたのが嬉しくて楽しくてしかたがないのだろう。高笑いをしながらまくしたてる様子は 「 供述 」 をしているのではなく、 「 自慢 」 そのものだった。すべての指示を出し終えて所轄署に駆けつけた和希と中嶋が、その自慢話を聞かずにすんだのは、むしろ幸いなのかもしれなかった。
 その久我沼の供述に合わせて、急遽、捜査本部が設置された。本部そのものは学園島の向かいの街にある、寺田の所属する警察署となったが、 「 例外的に 」 との但し書きをつけて鈴菱本社近くの警察署に捜査員が招集されることとなった。寺田はすでにこっちに出てきているし、警察の外事課や外務省との折衝にもこっちの方が便利だからだ。その一方で近見紀親と田中昌一の逮捕状及び松之尾組への捜査令状が請求され、即時発行された。事件の内容が内容だったのと、法務大臣やら警察庁長官やらに恥も外聞もなく和希が頼りまくったのとの相乗効果で、異常ともいえるスピードで発行されたものだった。
 だがそれが届くを待つだけの時間的余裕などあるはずもない。
 和希からの急報で駆けつけてきた寺田と合流した角谷・松村の両刑事は、令状も持たずに、ほんの少し前に離れたばかりの松之尾組事務所にとって返すことになった。寺田にしても松村たちにしても、たかだか高校生を拉致するのに、久我沼が何故暴力団と接触したのかが不思議でしかたがなかったのだ。それがここへ来て一気に氷解する思いだった。だがことは海外への人身売買である。興信所だの暴力団事務所だのでの追及が甘かったからといって、思いつかなかった彼らを責める者は誰もいないだろう。……そう。自分自身を除いては、だ。卑しくもプロであるという自覚のある3人の刑事は、見抜けなかった自分を激しく責めていた。

「おうっ。木村出せやっ」
 蹴り飛ばさんばかりの勢いで戸を開けた松村に驚いたのか、鬼気迫る顔つきをした寺田に気押されたのか。事務所に詰めていた下っ端たちは、何事かと問い詰めることもせずに若頭代理補佐を呼びに走った。普通では絶対といっていいくらいにありえない風景である。その所為かどうか、呼び出された若頭代理補佐も、先刻よりははるかに短い時間で事務所に姿を見せた。
「こりゃまた松村のダンナ……。何か忘れ物で?」
「とぼけるなやっ!」
 突然の怒鳴り声にすっと眼を細めたものの、そこは仮にも若頭代理を補佐する男である。表面的にはまったく態度を変えなかった。
「とぼけるなと言われましてもねえ。あたしには何のことやらさっぱり」
「シラを切るな。ナオのことだ」
「ナオ……ですかい?」
「どこへ飛ばした。いや? もう口を封じたか。おまえんとこの組は極道でもちょいとマシかと思ってたけどな、子供を売り飛ばすなんざ外道もいいとこじゃねえか。あ?」
 黙って言わせていた若頭代理補佐であったが、さすがにそこまで言われては「ちょっと待ってくださいよ」と口を挟まずにはいられなかった。覚えがあるならともかく、言いがかりとしかいえない言葉を並べられても困るのだ。
「ナオがどうしたってんです? それに子供を売り飛ばしたと言われましてもねえ」
「31日のことだ」
 それまで松村たちの後ろにいた寺田が前に出た。
「埼玉で拉致された男子高校生を、ナオに受け取らせたんだろ? 中東へ売り飛ばす手数料まで取ったそうじゃないか」
「いや……。そりゃ何かの」
「間違いとは言わせない。拉致った実行犯がうたってるんだ。どこへ売り飛ばした!」
 実行犯が自供したと言われても分らないものは分らなかった。松之尾組は海外とは何のつながりもないのだ。覚せい剤に手を出さないでいるのも、海外で安く手に入れるルートがないからにほかならなかった。上部組織から流してもらうと利益が少なく、リスクだけは増すからだ。それでなくても覚せい剤の密売は各種犯罪の中でもリスクが高い。小口ばかりではあるがそれなりのシノギを持つ松之尾組では、そこまでする必要はないというのが現組長の方針でもある。そんな松之尾組には海外に、ましてや中東に高校生を売り飛ばすルートなど持っていなかった。
 ナオも昌一も組のお荷物である。仕事らしい仕事もできない彼らにタダ飯を食わせているのも、いつか鉄砲玉にして使い捨てるつもりがあるからだ。だが彼らがそれに気づいていたとしたら。それをおもしろく思わず、こっそりと別の組織とコンタクトを取っているとしたら ―― ?
 嫌な予感と共にぞわりと何かが若頭代理補佐の背筋を這い上がった、そのとき。彼らの後ろで事務所のドアが開いた。
「捜査令状ですっ。逮捕状も持ってきましたっ!」
「なにいっ!!」
 それまでの落ち着きをかなぐり捨てて、若頭代理補佐が立ち上がった。

 どこかにルートがないか。中嶋の脳裏にはもうそれしかなかった。主に探っているのは秘密クラブでの人脈だった。中嶋がひいきにしていた 『 erbus 』 という店は業界でも老舗で、それだけに客筋も官公庁や大手企業のエリートがほとんどだったのである。名前も身分も明かさないのが不文律であっても、長くいればそれなりの情報は見えてくる。分かっていてもあえて見ないようにするほかの客と違い、見えるものはしっかり見ておくタイプだった中嶋は、誰か啓太を探す手段を持ったメンバーがいないかどうか、必死になって記憶細胞の中をひっかきまわしていた。
 使えそうであれば誰でもよかった。クラブに出入りしているのを公表するといえば簡単に協力を得られるだろう。それによって中嶋は業界から締め出しを食らうかもしれないが、それで啓太が見つかるものなら自分の名誉など安いものだった。
 ひとりの人物の顔が浮かんだのは鈴菱本社に戻ろうとしていたときだった。車を運転していた丹羽警視の部下と和希が、暴力団員が海外に高飛びするときのルートについて話していたのだ。 「 大手の暴力団 」 という単語に中嶋のセンサーが反応した。
「遠藤。戻れ」
「何?」
「うちだ。岩井の邪魔をしたくない。ここからならさほど時間もかからんだろう」
 岩井は今、河野を中心とした画廊及び美術館関係者に協力の要請をしているところだった。美術品は表に出せないルートを通ることも多く、中東方面の大金持ちに売りつけることも多い。手繰り手繰っていけばどこかで金脈にぶち当たる可能性があるのだ。そんな岩井の時間を使うことだけは絶対にできなかった。
 そして中嶋は和希の返事も聞かず、ハンドルを持つ丹羽警視の部下に自宅への道を説明しはじめた。



 知らない男が運転席から降りてきた。久我沼の部下なんだろうか。やたらへいこらしている。そいつがうしろのドアを開けた。
「さあ、乗れ」
 背中を汗が伝っているのは暑いからだけじゃなかった。誰かここを通りかからないだろうかと思っても、こんな暑苦しい時間に誰も出歩いたりしない。小学生だって宿題に追われて今日は遊びに出ないだろう。ましてや昼メシ時だ。
 朝のうちに戻ればよかったと思っても後の祭り以外の何ものでもなかった。うるさいはずのセミの声が次第に遠くなっていく。思わず閉じてしまった俺の目に浮かんだのは、父さんや母さんの顔じゃなく、中嶋さんの顔だった。







いずみんから一言。

ようやくの連載9回目です。中嶋氏が不憫なことになっちまってますが(汗)。
もうしばらくは石なんか投げないでーっ!! ←懇願
しかしみんな中東にしか目が向いていませんね。
当然といえば当然なんですが、書いていて「違うってば」と和希以下の動きに
いらいらしたりなんかして。
次回こそ佐野さんが出てきます。岩井さんもマックスも出したい。
そして入る余地があれば成瀬さんも出したい……。
野望だけは限りなく広がっていくようです(苦笑)。

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