最悪の3日間 第4回 |
寺田刑事が戻ってきた頃、地図上ではほぼ地域が限定されつつあった。それは学園島の隣の市で、かなり有力と思われるアパートの情報などもあった。 「ははあ。やってますね」 「かなりいけてると思うんですが。そちらとの情報のすり合せが楽しみですね」 「そうですね。自分もこの情報がその地図とどうつながるのか、今のところ予測がつきません」 「えっ!? って、つまりあの無言電話はこの辺からじゃなかった、ってこと?」 思わず不安そうな声をあげる啓太の手を、和希が軽く叩いた。 「そんなこと、今はまだ考える段階じゃない、ってことさ。おまえちょっと焦りすぎてるぞ。目の前のことばかりじゃなくて、もっと全体を見渡さないと」 「うん……」 「それより啓太。あれ出して」 和希に促されて、啓太は端の方の机に置いていた紙袋を取り上げた。 「まず腹ごしらえといきませんか。さっき秘書がサンドイッチを届けてきたんです」 「いえ、そんな。自分はそんなもの、頂くわけにはいきませんので」 寺田が慌てて両手を振った。 「ええ。でも三人でも食べきれないかもしれないくらいあるんです。それに食べながらお話を聞けば、その分のロスタイムがなくなります。ビジネスランチだと思ってください」 「ではちょっと、署長に聞いてまいります」 サンドイッチくらい賄賂にもならないだろうに。会議室を飛び出していく寺田刑事の後姿に、和希が可笑しそうに呟いた。数分後に戻ってきたとき、寺田は喫茶店のウエイトレスらしい、やたらカッコつけて歩く女の子を従えていた。 「有難くご馳走になれということです。でもその代わりにコーヒー代は払わせてください」 「ああ、いいですね。実はこちらで用意した飲み物は缶コーヒーだったんですよ」 ウエイトレスはカップにコーヒーを注ぐと、おかわりが入っているらしいポットを残し、しゃなりしゃなりと会議室を出て行った。 「向かいの喫茶店のコーヒーなんで……。鈴菱さんの口に合うかどうかはわかりませんが……」 「大丈夫です。アメリカで暮らした期間が長かったので、その点はご安心下さい」 和希の嘘つき。おまえが実は美食家だってことくらい知ってるんだぞ。そう思いながら厚切りチキンと卵のサンドイッチを取った啓太は、突然のように自分が空腹だったことに気がついた。朝方、和希のマンションでクラッカーを流しこみはしたものの、「食べた」といえるほどの量ではなかったのだ。だからこれは啓太が約40時間ぶりに取る、まともな食事であるといえた。ぱくぱくとサンドイッチをたいらげはじめた啓太を見ていた和希は、やがて表情を緩めるとコーヒーカップを取り上げた。 「それじゃあ報告いきます」 啓太に負けない勢いでひとつ目を食べ終えた寺田が、指を舐め舐め、レポート用紙のような紙を取り出した。 「まずN市の産婦人科の件ですが、署長を通して現地の所轄署に協力の要請を出しました。これはまあ、おっつけ結果が来るはずです。それから無言電話のほうですが、これらの電話番号はすべて、バーというか飲み屋の電話番号でした」 「バー、ですか」 さすがの和希にもこれはちょっと意外だったらしい。だがふたつ目をかじり始めていた寺田は、和希に向かってふんふんと頷きを返していた。 「住所を見ましたけど、高級な店のあるようなところじゃないです。カウンターで数席ってとこばかりじゃないですかね。まあ昼を回れば誰か出てくるでしょうから、行ってみればいいと思いますよ」 「ええ。ではそうしましょう。ここにいる伊藤も早く出かけたくてうずうずしているようですしね」 急に話を振られて、啓太はパストラミビーフのサンドイッチを喉に詰めかけた。目を白黒させる啓太に、和希が慌ててポットのコーヒーを注ぎ足してやった。 「こちらの方の情報では、A市の公園を中心に情報が集まっています。その近くにあるアパートの住民からメールと電話が入っていて、かなり有力なんじゃないかと思っています」 「それはどういったものですか」 「二ヶ月くらい前に引っ越してきた女性が連れていた赤ん坊に似ているということなんです。詳細を要求した担当者宛てのリプライでは、メールの主が『赤ん坊の泣き声がうるさくて寝られない』と苦情を言ったところ、『親戚から預かっている子供なので、少しだけ我慢して欲しい』と言われたそうです。電話の方はさらに突っ込んだ質問ができたようなんですが、それによると、昨日の夜から泣き声がしていない、と」 「くさいですね」 「ええ。とても」 「逃げられても困りますから、誰かに張り付かせておきましょう」 「よろしいんですか?」 「ええまあ、こっそり、ということで。署長には内緒にしておいてくださいよ。当たりにいけるだけの材料が集まるまでですから」 「了解しました。お願いします」 輪は確実に狭まっていた。だからこそ拙速はできなかった。それが解っているのか、啓太でさえすぐに動こうとは言わず、和希と寺田が手順を決めていくのをじっと見ていた。 「だいたいこのあたりなんですが……」 そういって寺田が足を止めたのは、同じような雑居ビルがごちゃごちゃと建ち並ぶ一画だった。夕闇がたちこめればそれなりの雰囲気になるのだろうが、昼の光にさらされたそれらのビルは、ただ薄汚さだけが眼につく、物悲しいコンクリートの塊だった。 「店の名前は『キャット・クロウ』でしたよね」 「はい。看板だけに頼らないで下さいよ。全部の店が看板出してるとは限りませんから」 「だってさ。啓太、一軒ずつ入っていって、まずは入ってすぐのところ。次にエレベーターの周囲を見てみるんだ。なければエレベーターに乗りこめばいい。どれかに店の名前が書いてあるさ」 「わかった」 「あ、ちゃんと一階も見ろよ。それからあんまり遠くへは行くな」 駆け出しかけた啓太は、和希の言葉に頬を膨らませた。 「もう。子ども扱いすんなよな」 「遠くへ行くと住所地からはずれるだろ」 「わかってるって」 まず手近のビルに飛びこんだ啓太は、入り口に案内板が貼ってあるのを見つけ、いちいち指で店の名前の上を押さえながら『キャット・クロウ』を探した。二軒目で同じようにしていると和希の声が聞こえてきた。 「啓太、あったぞ。こっちだ」 呼ばれた啓太が走っていくと、やはり薄汚いとしか言いようのないペンシルビルの、地下に下りていく階段の前で和希たちが待っていた。何か得体の知れない臭いのこもった階段を下りていくと、上手いのか下手なのかよく分らない猫の絵を描いた古びた木製のドアがあった。 「行きますよ」 寺田の言葉に啓太と和希が頷いた。 寺田がぐいっと肩で押すようにしてドアを開けると、ドアと同じく古くさい感じのカウンターが目に入った。左手にテーブルがふたつあり、逆さにした椅子がその上に積まれていた。右手のカウンターの中には、顔中の皮膚がたるみきった化粧気のない初老の女がいて、まな板の上で野菜のようなものを切る音がしていた。 「悪いね。警察の者なんだけど」 寺田が警察手帳を開いて女の眼の前に提示した。女は面倒そうにちらっと目を走らせただけで、また料理に戻ってしまった。スツールに腰かけた寺田はカウンター越しに女の手元をのぞきこんだ。 「何それ。今日の付出しかなんか?」 「ああ。きゅうりとにんじんの甘酢漬けだよ」 「うまそうだね」 「そうかい」 「俺とかそういうの好きなんだけど、嫁さんは作ってくれないよねえ。パスタとかサラダとかは見分けがつかないくらい作るくせにさ」 「そりゃあ、あんたの見る眼がなかった、ってことさね」 「違いない」 肩をすくめて見せた寺田に、ようやく顔をあげた女が口元をゆがめて笑った。 「ところでさ。お宅、ここのママ?」 「雇われだけどね」 「雇われでも立派なもんだよ。認められてなきゃ雇ってくんないよ」 「そうかね」 無愛想なのは変わらなかったが、ママは確かに食いついてきていた。寺田は話を核心に向けるために、ママに電話番号を確認した。無言電話がかけられたのは確かにここの電話だった。 「じゃあ今朝方ここから電話かけてきたのはママかい?」 「電話? あたしは電話なんてかけてないけどね。いったい何時ごろかね」 「六時ごろかなあ」 「その時間なら寝てるに決まってんだろうが」 「いや。俺もそうだと思ったけどね、何もいわずに切れちまったからこうやって調べてんだ」 「ごくろうさんだね」 「まったくだ。で、その時間、誰かここから電話するような人、思いつかない?」 「ないね」 「店の女の子とかさあ」 ママが料理の手を止めて考えるのを、啓太は文字通り手に汗を握りながら見守っていた。やがてママは何かに気がつくと、再び包丁を動かし始めた。 「何時ごろに来てるのか知らないけど、掃除の人が午前中に仕事を終わらせることになってる。もしかしたらそいつかもしれないね」 「そうか。掃除を頼んでるんだ」 「ああ。あたしじゃないよ。オーナーがね。どっかと契約してんだよ。けど、他人の電話勝手に使って、挙句にサツの旦那に来られるなんて。許せないね。変えてもらったほうがいいかねえ。仕事は丁寧で言うことないんだけどねえ」 「どうだろうねえ。じゃあママは掃除に来てるのが誰か知らないんだね」 「知らないね。顔も見たことないよ。詳しいことが知りたきゃオーナーに聞いとくれ。連絡先は書いてあげるから」 「そりゃ助かるよ」 ママはタオルで手を拭き拭き電話のところへ行き、下の方から出してきた電話帳を見ながらメモを取り始めた。それまで黙っていた啓太だったが、どうしても我慢ができなくなって口を挟んだ。 「あの……、すみません」 「なんだい坊や」 水商売が長いらしく、ママはこの場にそぐわない啓太に「誰だ」とは一言も聞かなかった。啓太が口を挟んだことでちょっとひやっとした大人ふたりは、プロであったママに心の中で敬意を表した。 「このへんに『かすみ』ってお店ありませんか? なんか同じようなビルばっかりで分りにくくて」 「『かすみ』なら二本ほど向こうの筋を右に折れたところだよ。ピンクの象が置いてあるビルだからすぐ分る」 「よく知ってるねえ。さすがはママだ。この世界、長いだけのことはある」 「どういたしまして」 書き取ったメモを寺田に渡しながらママが言った。 「オーナーが一緒だからね。たまたま知ってただけさ」 三人は同時に息を飲み、それから顔を見合わせた。寺田がさりげなく言葉をつづけた。 「じゃあもしかしたら『花屋敷』や『エンジェル』なんかもそう?」 「ああ。あと『らんせる』や『如月』なんかもそうだよ」 「ふうん。結構手広くやってんだねえ。いい腕してるんだ」 「それ、あたしに言わずにオーナーに言ってやんな。うれしがってぺらぺら何でも喋ってくれるよ」 「有難う。そうするよ」 邪魔したな。そう言いながらスツールから降りた寺田をママが呼び止めた。 「なんだい」 「ちょっと手、出しな」 黙って差し出した寺田の手に、ママは刻んでいたきゅうりとにんじんの甘酢漬をのせた。何を思ったか和希までが手を差し出してそれをもらった。 「うまい。絶品だ」 「本当だ。最高級品ですね」 驚くふたりに初めてママはにっこりと笑って見せた。 久我沼を安っぽくしたようなオーナーの金井は、ママの助言どおりにおだてあげると、結構簡単に情報を引き出せた。その結果、啓太たち三人は夕方前には、金井が店の掃除を委託しているTMSというメンテナンス会社で、担当者の話を聞くことができた。担当者の若い男はおどおどした態度で何度も眼鏡を押し上げながら、台帳のようなものを広げた。 「えーっと。金井興業さんとことは全部で五件と契約さしてもらってます。毎日の掃除のほかに、定休日の日曜に普段ではできない部分の掃除をしてます」 「今日はどうですか」 「今日は通常作業ですね。床掃除、拭き掃除、ゴミ捨て、食器洗い。そんなもんですかね。地域で契約してるゴミ収集車が来るのが昼前で、それまでに全部終わらせることになってます」 「今日いった人の事を知りたいんですけど」 顔をあげた担当者はちょっと顔をしかめた。 「それ……、ホントに必要なんすかね」 「なんだったら捜査令状とって来ますがね。そうなるとこちらの書類とか全面的に押収ということになるかもしれ……」 「ああっ!! いいっす、いいっす」 担当者は大慌てで否定した。 「出します、出します。何がいりますか?」 そうして啓太たちは今朝、無言電話をかけてきたと思われる女の住所と名前。そして履歴書に貼ってあったものではあるが、写真を手に入れたのだった。 |
いずみんから一言。 書いていて、キャット・クロウのママがとっても気に入ってしまいました。何かの機会にまた出してあげようと 思っているので、覚えておいてあげてください。 ピンクの象のいるビルは北野に上がる途中にあるので、神戸に来られたことのある方ならご存知なのでは。 こっちは薄汚れても飲み屋でもなく、ヒデの好きそうなジャズバーがあったりします。 |
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