最悪の3日間      第5回




「……なんか、フツーの人、みたい」
「伊藤くんもそう思う?」
「はい……」
 啓太と寺田刑事がTMSで拡大してもらってきた写真を見ながら歩いていた。和希は彼らの少し後ろで電話をかけていた。
「……うん。無言電話の主は特定できた、と思う。住所は例のアパートだった。今からいって話を聞くから、帰るのは何時になるかわからないな。……。悪いけどそのまま待機しててくれるかな。夕食は届けさせるよ。……え? まあそういうな、って。……。ああそうだ。中嶋さんに、啓太を待たずに夕食をすませるように伝えてくれるかい? 今朝の様子だと啓太を待ってるだろうからさ。よろしく」
 何で俺が中嶋くんのフォローまでせにゃいかんのだ?
 足取り軽く歩いていく啓太の後姿を見ながら、和希は小さくため息をついた。
 寺田の車の中で三人は、あらためてTMSでもらった資料を広げた。
 中村宏子。28歳。東京の短大を卒業後、都内の事務機器販売会社で営業をしていたが半年前に自己都合で退職。A市には二ヶ月前に転居してきた。家族なし。TMSでの勤務態度は超がつくくらいの真面目。苦情の類は今のところ一切なし。
「とりあえず、東京の会社に確認入れます」
「お願いします。それからN市の産婦人科の方はどうしますか」
「履歴書上ではN市ともN県とも関係ないようですねえ。子供もなしになってるし」
「駄目ですかね。結構いい情報だと思ってたんですが」
「まあしかたないでしょう。全部が全部ビンゴって訳にはいかないですよ。まだ断定はできませんけど」
「そうですね」
「病院に行ってくれた警察の人、無駄足になっちゃったんだ。俺たちの為に悪いことしたね」
 申し訳なさそうな声を出す啓太に、和希も寺田も即座にそれを否定した。
「違うよ。『関係ないということが分った』ってこと。これって大事なことなんだよ。今回だけじゃなく、いろんなことに使えるから覚えておいて。それにまだ関係ないと決まった訳じゃない」
「どういうこと?」
「履歴書に嘘を書いていた場合、があるだろ?」

中村宏子のアパートの近くで、啓太たち三人は張りこみをしていた刑事たちと合流した。彼らを引き合わせておいてから、寺田は一度、警察署に戻った。隣の市ではあったが警察までは一本道といってよく、さほどの時間がかからなかったからである。その間に刑事たちは和希に状況を報告した。
「対象者は出かけてるみたいですよ。ためしに両隣も訪ねたんですがどこも留守でした。まあ平日の昼間ですから不思議はないですがね」
「お手数をおかけいたしました」
 和希が彼らに礼を言うと、「非番だったからかまわないですよ」という返事が返ってきた。
「非番だったなんて。かえってご迷惑をお掛けしました」
「いや。面白いと言っちゃ語弊がありますがね、今朝の新聞には正直、度肝を抜かされました。しかしそう思う反面、こんなもので何がわかるんだかと思っていたのも事実です」
 すみませんねと言って刑事はつづけた。
「それがまあ会議室にこもったと思ったら、いつの間にやら対象者を絞ってるって言うじゃありませんか。これは最後まで見届けたいですよ。刑事ならね」
「すみません。よろしくお願いします」
 和希と啓太は揃って頭を下げた。

 和希の車の中で、啓太は息を詰めるようにして前方を見据えていた。和希もたまにパソコンをのぞくとき以外、眼だけは周囲から離さなかった。ふたりとも口をきかなかった。極度の緊張感の中、自分の心臓の音と相手の息遣いだけが聞こえてくる。
 なんか中嶋さんに抱いてもらう直前に似てる気がする。手が伸びてくる一瞬前っていうか、すぐ眼の前にある中嶋さんの顔が少し傾いたとき、っていうか……。
 自分でも場違いだと思いながら啓太がそんなことを考えた、ちょうどその時。和希の電話が鳴った。思わず飛び上がってしまった啓太を横目で見ながら、和希が携帯電話を取り上げた。いつでも発進できるよう、運転手が車のキィを回した。
「鈴菱さん、大変なことが分りましたよ!!」
「寺田さん? 落ち着いてください。何があったんですか?」
 電話は寺田からで、今までの彼からは想像もできないくらい興奮していた。
「N市の女は中村宏子でした」
「なんですって!?」
「とにかく、今、そっちへ向かってますので」
「どうしたの? 何があったの?」
 携帯電話をたたんだその手を啓太が掴んだ。和希は運転手にエンジンを切るように言うと、表情を緩めて啓太の顔をのぞきこんだ。
「N市の女が中村宏子だったんだってさ」
「……う、嘘だったの? やっぱりあの履歴書」
「そうなるな」
「そんなことしていいわけ?」
「うーん。よくないんだけどさ、あんなふうにパートとかだといちいち住民票を出せって言わないからなあ。調べようがないよ。この分だと多分、前の就職先も嘘だろうな」
 やってらんないよといいながら、和希は啓太を連れて、刑事たちの乗ったバンに移動した。

「これがN県警から送られてきた後藤芳惠のデータです」
 寺田がデータを広げた。彼と一緒にまた刑事がやってきたので、バンの中はほとんどすし詰め状態だった。しかしそれに不満を言うものはなく、みんな寺田の手元を見つめていた。
「母子健康手帳がありますから、こっちの名前が正解でしょう。ただし出生届は出されていないようです。N市のNマタニティクリニックで赤ん坊の写真を見せて確認をとったところ、8月31日に生まれた後藤ベビーによく似ているとのこと。これは捨てられていた赤ん坊の推定月齢とも一致します。そして子供は男の子だったそうです。さらにですね、この病院では赤ん坊が生まれたとき、その写真を撮ってプレゼントするんだそうです。ネガしか残ってなくて、借りてきて現像してからこっちに送ってくれたので、時間がかかっていたようです」
 だからこっちのパソコンのアドレスを伝えておいたのに。
 和希と啓太は心の中で毒づいた。寺田はどうやらメールのやり取りというものがもうひとつ飲み込めていなかったらしい。N県警からメールで写真が届けられるなら、和希が持ち歩いているパソコンに送ってもらえたら手間はかからなかったのだ。かなりの時間がロスされたことになるが、本人が留守をしている状況では説得力がないのも事実ではある。
 寺田が回してきたその写真は出産直後の母子を撮ったもので、まだ血だらけの赤ん坊に、男たちは声を無くした。しかしそこに写っている母親は、化粧気もなく髪型も違っていたけれど、確かにTMSでもらってきた履歴書の写真と同一人物だった。
「あの子、後藤くんだったんだね」
 今見た写真のすさまじさからか、あるいは赤ん坊を捨てるという非情な母親に対する怒りからか、蒼ざめた表情をした啓太が、気を取り直すように言った。
「そうだな。俊介と海野先生はゴンちゃんって呼んでるけどな」
「ゴンちゃん? 名無しの権兵衛のゴンちゃんですか?」
「そのようです」
 くすくすとでも笑ったのは啓太と和希だけだった。たとえ親元で育てられていても、出生届けを出してもらえず、学校へいけない子供がいる。それどころか名前さえつけてもらっていない子供だって世の中にはいるのだ。学校にもいけず、海外旅行にもいけず、車の免許も取れない。生まれてから死ぬまで、公には存在しない人間たち。そういう現実を知っている刑事たちには、名無しの権兵衛というのは冗談というには生々しすぎたのだろう。
 しばらくの沈黙の後、和希の肩を刑事が叩いた。
「鈴菱さん。ゴンちゃんの母親が帰ってきましたよ」

 ドアを開けた中村宏子こと後藤芳惠は、どこへ出かけていたものか、きちんと化粧をしてスーツを着込んでいた。帰宅して着替えかけていたときだったらしく、シャネルタイプのスーツの襟元からはスカーフが引き出され、はずされたボタンの下に白いブラウスがのぞいていた。しかしその顔は写真で見たものより10歳以上老けて見えた。彼女はドアの向こうに立っている高校生とその兄たちのような三人を見て、少し怪訝な顔をした。
「中村宏子さん、ですよね」
「そうですけど?」
「ちょっとお話を伺いたいんですけど」
「話?」
「ええ。今朝方かけてこられた無言電話について」
 いきなり閉じられかけたドアを、営業用の笑顔を作った和希がさりげなく押さえた。
「なんなんですか、あなたたちは!? 変なこと言ってると警察呼びます!!」
「警察ですか?」
 一番後ろにいた寺田が啓太と和希の間に割って入り、警察手帳を顔の横で広げた。
「はい。何でしょう?」
「……」
 中村宏子がくちびるを噛んで三人を睨んだ。その隙に寺田は啓太と和希を玄関の中へ押しこみ、自分も入るとドアを閉めた。三人が立つと一杯になるくらい狭い玄関だった。それでも宏子は彼らを部屋の中に入れようとはしなかった。
「ではあらためてお伺いします。あなたは今朝方、『キャット・クロウ』『かすみ』『らんせる』『エンジェル』『花屋敷』というバーやスナックの電話を使って、中央情報センターに電話をかけてきましたね。……なんでしたら時間も言いましょうか?」
 宏子は何度も髪をかきあげてはくちびるを舐めていたが、やがて視線を外すと早口で言った。
「あんな小さな赤ちゃんを捨てるなんて許せなかった。だから一言、文句をいってやろうと思った。だから電話をした。わかった!? わかったらさっさと帰ってちょうだい!!」
 何か言おうとした啓太を、和希の手が掴んで止めた。代わりに口を開いた和希の口調は静かに押さえられていた。
「子供は捨てられていたんですか?」
「そうでしょ? だって新聞に……」
「新聞広告には『捨てられていた』なんて一言も書いてませんよ」
「……!!」
「どうして捨てられた子供だなんて思ったんですか?」
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
 投げやりに言う宏子に、啓太が和希の手を振り払った。
「何がどうでもいいんですか!? 捨てたいんだったら施設があるじゃないですか。よりによって学校に捨てるなんて。回り中にどれほど迷惑かけてると思ってんですか!!」
「……啓太、やめろ」
「いいかげんにして欲しいですよ!!」
「啓太」
 両肩を和希に掴まれてようやく我に返った啓太は口をつぐみはしたものの、怒りに身体を震わせながら中村宏子を睨みつけた。
「何よ、あんた。警察にくっついてきたりして。大人の話に首突っ込むんじゃないわよ!」
 眼を吊り上げて金切り声をあげた宏子に、和希が頭を下げた。
「すみません」
「すみませんじゃないわよ! なんであんな……」
「こいつの恋人が子供の親だと思われてるんです。このまま本当の親がわからないと、退学になりかねない。それでちょっと興奮してるんです。許してやってください」
 たとえ子供の親が分からなくても中嶋が退学に追い込まれることはない。少々居心地の悪い思いはするかもしれないが、それさえ気にするような男ではない。だが少年の恋人 = 女子高生と思っている中村宏子には、ちょうどいい脅しだった。和希の思惑通り、彼女は急激に表情を変えていった。
 驚いたのは宏子だけではなかった。思わず啓太の顔をのぞきこんだ寺田も、口の中で「そうだったのか……」と呟いた。
「……退学になるの?」
「校則の厳しいところですから。今のままならほぼ確実に」
「どうしてそんなこと!! だって調べれば無関係だってすぐ分るじゃない」
「おっしゃるとおりです。その子は医学上の問題から子供は産めません。でもうわさというのは無責任で残酷なものなんです。医師の診断書など出したりしたら、かえって疑いを深めることになってしまう。診断書を持ってくるなんてわざとらしい。きっと頼んで書いてもらったのに違いない、ってね」
「……」
「まったく皮肉なものですよね。子供を産めない人間が捨て子の親にされてしまった。年が明けたら大学受験だったんですが、このままではもう無理でしょう。うわさが広がるのは早いですからね。今の家に住むこともできなくなるかもしれません。心無い母親は自分の子供だけでなく、まったく無関係の人間の未来さえ踏みにじってしまった」
 たたみかける和希の前で中村宏子は俯いてしまった。和希は寺田を促して、啓太と寺田を先に外へ出した。
「子供はまだ、捨てられた場所で預かっています。施設に預けたら事件になってしまいますからね」
「……」
「もし母親に心当たりがあるなら伝えてください。警察は動いていますが、まだ正式に届を受理したわけじゃない。明日の午前中までなら保護責任者遺棄の罪には問われません」
「……」
「頼みましたよ。後藤芳惠、さん」
 はじかれたように中村宏子が顔をあげた。が、すでに和希の姿はなかった。ドアの閉まる音だけが、小さく彼女の耳に届いただけだった。





いずみんから一言。

ようやく追い詰めました。ご都合主義だなんてツッコミはしちゃーいけませんぜ(笑)
和希が珍しく脅しをかけてます。この部分、とっても楽しんで書きました。何人くらいの方が笑って
くださっているだろうか、と。



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