最悪の3日間 第6回 |
寺田たち刑事と別れた啓太は和希とともに学園島に帰ってきた。中村宏子こと後藤芳惠から何らかのアクションがあるとすれば、それは学園に来るか情報センターへ電話をかけてくるかのどちらかになると考えられるからだった。彼女に逃げられたら元も子もなくなるいうことで、数人の刑事が張りこみを買って出てくれた。そのおかげで啓太と和希は一緒に帰ってくることができたのだった。ふたりを乗せた車が夜の闇に浮かび上がった橋を渡りきったとたん、啓太が声をあげた。 「すみません! 車、停めてください!!」 「啓太?」 訝りながらも、和希は運転手に命じて車を停めさせた。停まりきらないうちにドアを開けた啓太は、転がるように走っていくと、植え込みの向こうにいた背の高い影に飛びついた。それが中嶋であることを見て取った和希は、彼らを追い越してから車を降りた。啓太が車の中に残していった荷物を持った和希は、サーバー棟へ歩いていきながら、啓太が選んだのは中嶋だったのだと、あらためてそう思った。分っていたつもりではいても、胸の奥底が焼けるように痛んだ。 理事長室では丹羽たち三人が分析結果を書類にしているところだった。無理やり気持ちを切替えた和希は、明るい声を作って彼らに話しかけた。 「みんな、ごくろうさま。おかげで助かった」 「そんなことより啓太は? どうしている」 「中嶋くんを見つけて飛びついていったよ。陰にいたのによく見つけたものだ。恋は盲目って言うけどさ、啓太を見てると恋は千里眼だって思うね」 「ってことは、啓太のやつ。元気を取り戻したんだな」 「ああ。もうすっ飛ばしてたよ。啓太の一言で後藤芳惠にショートカットできたし、何より啓太の必死さがなかったら、あの女は口を割らなかったかもしれない。というか、今頃は飛んでただろうな」 丹羽が軽く口笛を鳴らした。他のふたりも丹羽ほどではなかったが、やはり驚きの声を漏らした。 「気分転換になればいいくらいの気持ちで連れて行ったんだけどね。こっちが思った以上の働きをしてくれたよ」 「では僕たちのしてきたことは無駄ではなかったわけですね」 「もちろんだよ。君たちの的確な情報分析能力をあらためて見せてもらった。いくら啓太がすっ飛ばしたくても、方向が分らなければどうすることもできなかったんだからね。有難う。特に西園寺くんのシャープな切れ味には敬意を表するよ」 「無言電話のことを言っているなら、あれはわたしというより、大前チーフの判断力がすべてだった。彼女が拾いあげてくれなかったら、いくらわたしでも見落としていただろう。N県の件ならたまたまわたしが電話を取っただけだ。結果は誰でも同じだった」 『謙遜』の二文字には無縁の西園寺のことばだった。おそらく西園寺は本気でそう思っているに違いなかった。 「お話中ですが、伊藤くんが帰ってきたようですよ」 モニタを見ていた七条が和希に声をかけた。和希は頷くと七条にお茶の用意を頼んだ。 「ヒデに飛びついてったって割には早かったな」 「まあ啓太だって、まだ解決してないことくらい分ってるんだろう。大詰めはこれからだ。……ああそうだ、七条くん。お茶とお菓子はこれだ。みんなへの差し入れだって、啓太が一生懸命に選んでたから、少々気に入らなくても何もいうなよ」 「わざわざそういうところを見ると、そういいたくなるようなものを選んだということだな?」 「さあね。ご想像に任せるよ」 「まあいいだろう。昨日からずっと啓太に付き合ってきたんだ。最後の最後まで付き合うくらい何でもない」 そう言いながらも西園寺は、七条が受け取った紙袋をのぞきこんだ。 「なんだ、たねやの干菓子と一保堂の煎茶じゃないか。脅かされたわりには普通だな」 「でも伊藤くんの『一生懸命』が伝わってくるような気がしますよ」 「まあな。疲れたときにはコーヒーとケーキより、日本茶と和菓子の方がいい。それに、落雁ならおまえでも大丈夫だろう」 「ええ、クッキーみたいなものですからね」 お茶を淹れに行こうとした七条が、会議室のドアを開けたところで足を止めた。その顔にやわらかい微笑が浮かんだ。開け放たれたドアから聞こえてきていた軽い足音が大きくなったとき、七条は身体を半身に開いて足音の主を通した。真っ赤な顔をして会議室に飛びこんできた啓太は、温かく迎えてくれた丹羽や西園寺に対して、まずぺこんと頭を下げた。 「ご心配おかけしました。それと、えっと、あの……。有難うございましたっ!!」 「おう。大活躍だったそうじゃないか。ちょっとここへ座って、詳しいことを話してくれや。一番最初に聞く権利は、俺たちにあると思うぜ」 大きな手で肩をどついた丹羽に、啓太は恥ずかしそうにしながらも誇らしげな表情を向けた。それは愛するものを自分の手で守ろうとしている人間だけができる表情だった。 お茶をしたあと、西園寺と七条はひとまず自室に戻った。彼らにはまた明日、早朝からの作業が待っている。そして丹羽は連絡があるまで子供のいる部屋で待機することになった。ゴンちゃんにアレルギーがあるかもしれないということで、トノサマが部屋にいないことを知っていた丹羽は、どこから探してきたものか、寝袋を引っ担いで寮に戻っていった。 「だってよう。あの部屋に差し入れたソファは狭いんだよ。サルたちにはちょうどかもしれねぇけど、俺が寝るには窮屈すぎるぜ」 部屋のソファは滝と海野が交代で使っている。彼らふたりは昨日から24時間体勢でゴンちゃんの世話をしているのだ。丹羽はそんなふたりからソファを取り上げることができなかったのに違いない。 「素直じゃないねえ」 学内カメラのモニタで丹羽の姿を追いながら、和希がくすくす笑った。 「そんなことより。和希、ひとつ訊いていいか?」 「何?」 「どうしてゴンちゃんたちはセキュリティにひっかからなかったんだ? いくらゲートのとこまでだって言ったって、あんなに簡単に橋を渡れていいわけ?」 「うーん。それを言われると弱いんだけど」 和希が困ったような笑顔を向けた。 「基本的に橋は誰でも渡れるんだよ。運動部は朝練のランニングコースに使ってるし、路線バスだって毎日きてるじゃないか。それに外部の人で学校に用事のある人っているだろう? 橋が下りている時間が限られるから、いきなり来ても渡れないことが多いだろうけどね。これは限られた人間しか知らないことなんだけど、あの橋全体が空港のセキュリティゲートみたいな構造になってるんだ。向こうの端をバイクとか車とか自転車とかが渡り始めると、センサーが作動してこっちのメモリに記録され始める。同時にスキャンが開始されて、爆薬や凶器などを感知するシステムになってる。で、こいつはやばいとなったら、その時点で柵が出てくるんだ。おもしろいから今度実際にやってみせるよ。前と後ろから柵が出てきて挟み撃ちにするんだ」 「でもゴンちゃんはメモリにも残ってなかったんだろう?」 「うん。だから歩いてきたんだと思う。通過メモリに記録が残ってなくても、光電管を切っているのに違いはないから、危険物のスキャンはされてるんだ。そっちの記録はちゃんと残ってたよ。後藤芳惠らしき人間はライターさえ持っていなかった。だから橋が通れてしまった。もっともIDカードを持ってないから、ゲートの中までは入れなかったみたいだけどね。ゴンちゃんだけならゲートの隙間から十分中に入れられるよ。……でも食堂のおばさんで通いの人とか、新聞や牛乳を配達しに来る人は多いからなあ。そういう人たちに見られなかったのは、まあ幸運ってことになるのかな。案外、すぐそこで橋が下りてくるのをじっと待ってたのかもしれない」 学園島にかかる橋は車でも数分かかる。日中はまだそれほどでもないが、明け方はもうかなり寒くなっている。そんな中で生後まだほんの数ヶ月にしかならない息子を抱いて、橋が下りるのをじっと待っている後藤芳惠を想像すると、思わず身震いしてしまうくらい恐ろしかった。 「まだ真っ暗だよ。っていうか夜と一緒じゃないか。それにすぐ下は夜の海だよ。俺でも気味悪いと思う。そんなところ、赤ん坊抱いて歩くんだよ。母親が。自分の子供を捨てるために、あの長い距離を」 「啓太……?」 「やってらんないよ、たまんないよ、こんなの」 啓太の眼からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。 「ゴンちゃんが……、かわいそう、すぎるよ……」 くちびるを噛む啓太の手を、何も言わずに和希がそっと撫でた。おまえの気持ちはきっとゴンちゃんに伝わるよ。そう思いながら和希は、啓太が落ち着くまで手を重ねていた。 翌朝。和希はいつもより早く橋を下ろした。西園寺や七条も夜明け前には理事長室に戻ってきていた。勤務態度は超がつくくらい真面目だったという後藤芳惠が現れるとしたら、仕事の終わった昼前になる可能性が一番高かったのだが、捨てた時間に来るという線も否定できなかったからである。だが昨夜あのまま張りこみをつづけた刑事から、彼女がいつもどおり『キャットクロウ』へ出勤していったと連絡が入って、それが消えたのだった。電話を切った和希が啓太を手招きして言った。 「後藤芳惠は仕事に行った。食堂が開いたら王様たちに朝食を届けてくれるかい? おまえはそのまま中嶋さんと食事して来い。それで帰りに俺の分の朝食を持ってくる。OK?」 「西園寺さんたちの分は?」 「僕たちは交代で出かけますから。ご心配なく」 「ということだ。おそらく九時より前に後藤芳惠は現れない。だから慌てなくていい」 「電話はかかってこないかな」 「相手が電話だけで済ませるつもりなら、ここへ来ざるを得ないように、わたしが誘導してやる」 それ以上は啓太も何も言えなかった。そして目立たないうちにと促され、サーバー棟から出て行った。 「保護者も大変だな。それとも惚れた弱みというやつか?」 「どっちでもお好きな方を」 諦めたように言う和希に、七条が横でくすっと笑った。 彼女が動き始めたのは、あと数分で十時になるという頃だった。朝から『らんせる』に張り込んでいた寺田が、眠気の吹っ飛ぶような声で電話をかけてきた。 「寺田です。後藤芳惠がタクシーを拾いました。今のところ、湾岸線を学園島方面に向かっています」 「了解しました」 電話を切った和希の反応は素早かった。 「啓太。王様に連絡。ゴンちゃん待機だ。西園寺くんは電話を、七条くんはモニタをお願いする」 啓太が丹羽と連絡を取っている間に、和希はゲートの警備室と何かを話していた。そして受話器を置くなり啓太を連れて、ゲートへ向かって走り出した。 ゲートでは警備員たちが緊張しきった顔で啓太たちを出迎えた。今度のことで責任を感じている彼らは、夜間の当直を当直室ではなく、このゲート脇警備員室で24時間体制のものに切り替えると申し出ていた。後藤芳惠を見逃したのは警備員の責任ではなくシステムの問題だと和希は考えていたが、それで警備員たちの気がすむのなら、警備員室を当直できるように改装してもかまわないと伝えていた。その原因を作った張本人が現れると聞いて身構えていたら、なんと理事長までもがじきじきに現れたのだ。彼らの緊張がピークに達していても不思議でも何でもなかった。 「ちょっと風が冷たいね。こどもを中に入れてもいいかな」 「どうぞ。汚いところですがお使いください」 警備員はそういったが、中は思ったより片付いていた。ちょっとのぞいて見た和希は、一足遅れてやってきた丹羽とゴンちゃんを抱いた滝、そして荷物を持った海野とを警備員室に入れた。ゴンちゃんはあいかわらずほとんど泣き声をたてなかったが、少なくとも発見された頃のようなうつろな表情だけは消えていた。滝と海野がいかにゴンちゃんをかわいがっていたのかが、それだけでも十分に窺えた。 ほどなくして和希の携帯が鳴り、西園寺が短く「来るぞ」とだけ言った。和希は橋の向こうに車の影を認めると、啓太をゲートの脇に引っ張っていった。車は間を置いて三台がこちらへ向かっていた。最初の一台が後藤芳惠の乗ったタクシー。後の二台が刑事たちの車だと思われた。 車から降り立った後藤芳惠は昨日と違い、いかにも仕事の帰りといったブルゾンとジーンズという服装で、口紅をひいただけの顔は少し蒼ざめて見えた。彼女は戸惑ったようにあたりを見回していたが、やがて警備員室の方に歩き出した。 少し離れたところに車を停めた刑事たちは、寺田だけを下ろして、あとは車の中に留まったままだった。刑事事件にはなっていないので、何かが起こらない限り手を出しにくいのだろう。和希はゲートの脇から顔を出して彼らに会釈をした。その姿を認めたらしい寺田が、啓太たちの方に歩み寄った。 「おはようございます。鈴菱さん。伊藤くん。いよいよ大詰めですね」 「おはようございます。何日もすみません」 「おはようございます」 挨拶はしていても、三人の眼は後藤芳惠から離れなかった。警備員と話をしている彼女は、次第に苛立ってきているようだった。その様子を見た和希が啓太の肩を叩いた。 「よし啓太。おまえ行ってケリをつけて来い。ここは私有地だ。殴ろうが蹴ろうが罵ろうが、何をやってもかまわない。いくらでももみ消してやるから、おまえの気のすむようにして来い」 「かっ、和希……?」 驚く啓太に、和希が悪戯っぽく笑って見せた。 「冗談だよ。ちゃんとここで見てる。おかしな方向へ行きそうになったら、俺や寺田さんが出て行くからな。安心して中嶋さんの無実を、おまえの手で勝ち取って来い」 「どうせ後で事情聴取はするんだからね。面倒なことは自分らに任せておきなさい。伊藤くんは言いたいことを全部言って、聞きたいことだけを聞けばいい。駄目だと思ったらゴンちゃんを返さなくてもいいんだ。そういう選択肢もあるってことを覚えておきなさい。わかったね」 緊張しきった表情で頷くと、大人たちに見守られて啓太は足を踏み出した。そして警備員と言い争う後藤芳惠に向き合うと、静かに語りかけた。 「……ゴンちゃんは泣きません。赤ん坊なのに泣きません。おしめが濡れてもおなかがすいても泣き声をたてません。誰があやしても反応しません。じっと空を見たままです。表情というものがないんです。あんなに小さな赤ん坊なのに、捨てられたことをちゃんと知ってるみたいです……」 自分のどこを探しても、眼の前にいる女に対して、昨日感じたような憎しみが見つからないことに、啓太は少し驚いていた。和希たちにああ言われて歩き出しはしたものの、何をぶつければいいのか考えもつかなかった啓太だった。それが後藤芳惠を前にしたとたん、まるで用意してあったかのようにことばが口をついて出てきたのだった。そしてそれは自分のことでも中嶋のことでもなく、ゴンちゃんを代弁するものだった。 「ここ、とっても寒いでしょう? 明け方はもっと寒かったはずです。そんなところに置き去りにされて、きっとものすごく泣いたんだと思います。泣いて泣いて。でも自分を守ってくれるはずのおかあさんは来てくれなかった。きっとそれで泣くのをやめてしまったんです。俺はあんな小さい赤ん坊に泣くのを諦めさせた人間を、親だなんて思いたくない。だから俺は、ゴンちゃんをあなたに返すかどうか、ゴンちゃん自身に聞いてみたいと思います」 そして啓太は警備員室のドアを開けた。立ちはだかる丹羽を押しのけるようにして思わず駆け寄った母親という名の女に、ゴンちゃんを抱いていた俊介から厳しい声が飛んだ。 「俺のお母さん、のんだくれて暴れまわる親父から俺を守ってくれたで! 俺さえおらんかったら身軽やったのに、親父が借金残して死んだあとでも、愚痴ひとつこぼさず俺を育ててくれたで!!」 俊介のことばに、泣いたのは後藤芳惠ではなかった。彼女の腕に抱き取られたゴンちゃんだった。火のついたように泣くゴンちゃんの泣き声は、一度は自分を捨てた母親を責めているようでもあり、この数日間をうめるために精一杯甘えているようでもあった。ゴンちゃんを抱きしめた後藤芳惠はその場に座りこんで、ごめんねごめんねと、ただそれだけを繰り返していた。 「よかった。ゴンちゃん、ちゃんと泣けるんだね。泣けるようになったんだね。ああ、よかったぁ……」 本当にほっとしたように海野が言った。何も言わなかったが、俊介も啓太も丹羽も、そして和希や寺田も、みんな思いは同じだった。ゴンちゃんは彼女を母親だと認めたのだ。 「それでは一緒に来てもらいましょうか」 頃合を見計らって歩み寄ってきた寺田が、後藤芳惠を立たせながら言った。 「まずはその子の出生届を出してもらわないと」 「……はい」 覆面パトカーが出ようとしたとき、海野が思い出したように駆け寄っていった。追いついた彼ははあはあ言いながら、手にした紙袋を、窓を下げた寺田に差し出した。 「これ、紙おむつです。あと粉ミルクと哺乳瓶と着替えも入ってます。これはここの学生たちのカンパで買いました。みんなこの子のことを本当に心配してたんです。その心だけは絶対に忘れないで欲しい。そしていつの日か、そんな高校生たちに助けられて生きた日があったことを、この子に伝えて欲しい」 後藤芳惠に向けられた最後のことばに返事はなかった。だが必ず伝えられるだろうことを、海野は確信していた。 |
いずみんから一言。 全キャラにいい役をと思っていたのですが、これで何とかなったようです。 削っちゃったので出てきませんでしたが、俊介はおむつを替えたりミルクを飲ませたり、八面六臂の 大活躍をしていました。 次回はようやくあの方の出番です。 |
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