最悪の3日間      第7回




 捨て子騒ぎがあった朝以来、中嶋英明は最低の思いで日を過ごしていた。思い返してみても、彼の生涯でこの三日以上にひどい日はいまだかつてなかった。別に捨て子の父親と目されたからひどい日だったわけではない。認知しろとも籍を入れろとも、ましてや養育費を払えとも言われていないのだ。見知らぬ女が捨てた子供の父親と思われたくらい、蚊に刺されたほどにも気にしていなかった。そう。啓太が笑い飛ばしていてくれさえいたら、こんな気分にはならなかったのに違いない。笑い飛ばさないまでも、せめて詰ってくれていたらまだ対応のしようもあったのだが。
 騒ぎのあと、精神安定剤を服んだ啓太が落ち着くのを待って、中嶋は授業に出た。さすがに授業中は集中しているが、休み時間になるとあの憔悴しきった啓太の顔が浮かんできて、似合わないため息を何度もついた。食堂と同じ、周囲のよそよそしさはまるで気にならなかった。ただ啓太に辛い思いをさせてしまったという事実のみが中嶋を苛んでいたのだった。
 昼休みに一度、中嶋は啓太の様子を見に寮に戻った。カーテンをひいた薄暗い部屋の中で、啓太は眉根を寄せた苦しげな表情で眠っていた。夢の中でまで苦しまなければならないなんて、啓太がいったい何をしたというのだろう? 中嶋は椅子をひいてきてベッドの傍らに座ると、午後の授業が始まるまで、食事もとらずにじっと啓太の寝顔を見つめていた。
 捨て子騒ぎがあったからといって、学生会の仕事がなくなるわけでもなかった。朝から姿の見えなかった丹羽は、遠藤に言われて対策にかかりきりになっているのだろうと見当がついていた。それならば中嶋の仕事は、丹羽が復帰次第すぐに、仕事に取りかかれるようにしておくことだった。
 七時前に仕事を切り上げて寮に向かっていると、やはり美術部室に残っていたらしい岩井が追いついてきた。
「啓太の様子はどうだ?」
「遠藤が薬で眠らせているが……。かなり辛そうだ」
「そうか。……心配だな。こんなところにいていいのか?」
「ああ。今は成瀬がついてくれているからな。帰ったら交代する」
「俺にできることがあったら何でも言ってくれ。夜中でも明け方でもかまわない」
「有難う。遠慮なくそうさせてもらう」
 岩井の方から中嶋に声をかけてくることなど、入学以来初めてだったかもしれない。普段の啓太をよく知る者は、みんな惜しみなく力を貸そうとしていた。それを素直に受け入れている自分に気がついたとき、中嶋は自分がいかに啓太を大切に思っているか。そして自分がいかに参ってしまっているかを思い知ったのだった。平然とした顔を装ってはいても、食事も煙草もまるで味がしなくなっていた。笑っていなくてもいい。すねた顔、怒った顔でもいい。啓太が見せてくれるならどんな顔でもいいが、もう二度と再び、苦しんだ顔だけは見たくないと、心の底からそう思った。
 翌朝。目覚めはしたものの昨日よりひどい顔をした啓太を、和希が食堂から連れ出して行った。心がどこかへ行ってしまったかのような後姿を、中嶋は祈る思いで見送った。啓太は中嶋や成瀬が何度ことばを変え、脅したり宥めたりしても、スープのカップを手に取ることさえできなかったのだ。最後の手段のつもりで啓太の口元へ持っていったポテトサラダまで、力なく首を振って拒否されたとき、中嶋は生まれて初めて他人を頼っていた。
 誰でもいい。啓太を救ってやってくれ、と――
 そうでもなければこんな状態の啓太を、和希の手に委ねたりはしなかったのに違いない。

「おうヒデ。啓太のことだけどよ」
 夕方に入った丹羽からの連絡に、中嶋は思わず電話を握り締めていた。が、幸いにもそれは身構えるような内容ではなかった。
「今、例の調査で張り込みやってるらしい。何時に帰れるかわからねぇから、先にメシ食っといてくれってよ。さっき遠藤から連絡があった」
「わかった」
「あいつなあ、ぶんぶんぶっ飛ばしてるみたいだぜ」
「そうか」
 電話を戻した手で煙草を出した中嶋は窓際へ歩み寄ると、下を見下ろしながら火をつけた。まだいがらっぽく変な味だったが、先刻までのようにまるで味がしないというようなことはなかった。中嶋は煙と一緒に、二日分の深い息を吐き出した。
 だがその夜、学園に戻ってきた啓太も、そして今日の朝、食事に行きましょうと起こしにきた啓太も、表情にはまだ思いつめたような緊張感が残っていた。もういいということばが喉元まで出かかっていたが、とても口にはできなかった。そんなことをすれば、無意味どころか啓太の状態を悪化させるだけだと分っていたからだ。中嶋の煙草は再び味をなくし始めていた。

 それは三時間目の授業の途中だった。中嶋のクラスでは古典の教師が源氏物語の花宴の巻を謡うような調子で読み上げていた。突然、校内放送のスイッチが入ったかと思うと、学生たちがざわめく間もなく、丹羽の声が流れてきた。
「授業中すまねえ。例の捨て子だが、ついさっき母親が引き取って帰った。母親も父親もこの学園には何の関係もなかった。以上だ。授業に戻ってくれ」
 何事もなかったかのように教師が授業を再開し、学生たちも雅な恋の行方に戻りかけた頃。中嶋の携帯電話が振動した。取らなくても啓太だと見当がついたので、中嶋は小さく「失礼」と言いおいて廊下に出た。
「もしもし中嶋さん? 啓太です。さっきの放送、聞いてくれましたよね?」
「ああ、もちろんだ」
「俺やりましたよ。中嶋さんの無実を証明できました!!」
 弾んでいる表情が見えてくるような啓太の声だった。中嶋の口元に暖かい笑みが浮かんだ。
「よくやったな。有難う」
「はいっ。それで俺、今から和希と警察にいってきます。あの子の出生届だすのを俺に見届けさせてくれるって、刑事さんが言ってきてくれたんです」
「そうか」
「帰ってきたら詳しく話します。それから、えっと、今夜は関係者で打ち上げするそうですから、中嶋さんも寮に帰らずに学食に来てくださいね」
「わかった。待っている」
「はいっ!!」
 それじゃあといって啓太は携帯を切った。肩から力の抜けるのを感じながら、中嶋はしばらくの間、壁に寄りかかって廊下の天井を眺めていた。

「だから。ハニーはやっぱり僕と付き合うべきなんだよ。そうしたらこんな悲しい思いは絶対にさせないよ」
「あかんあかん。由紀彦やったら、月に一回は同じことが起きてまうで」
「俊介!! 君はあっちへ行って、たこ焼きでも食べてろよ。理事長が君のために用意したんだから」
 その日の夜。一般の学生がいなくなった学食は、理事長が用意したご馳走と笑い声、そして熱気に満ちていた。この場には直接この件にかかわった人間だけでなく、啓太のことを気遣った者たちやスクープをモノにした新聞部員まで招待されていた。中心にいるのはもちろん啓太で、何か言われるたびにくすぐったそうな笑みを返していた。
「あの……。成瀬さん」
「なんだい」
「俺が薬で眠ってた間、ずっとついてて下さったそうですね。俺、全然覚えてなくて……。すみません。有難うございました。さっき中嶋さんに聞いて、びっくりしてたとこなんです」
「いいんだよ」
 そういって成瀬は啓太の頬にキスをした。
「だって僕が寝込んだりしたら、ハニーが看病してくれるだろう?」
「もちろんです」
「だからね、いいんだよ」
 啓太は成瀬のやわらかい笑みに、もう一度頭を下げた。

「で? 結局、父親って誰だったんだよ」
 学内新聞を広げた丹羽が誰にともなく言った。
「号外が出たのはいいが、なーんにも詳しいことなんか書いてねぇじゃねぇか」
「丹羽。おまえ自身がわかっていないのに、新聞部の連中が知るはずあるまい? 滝に張りついてスクープ写真をとっただけでも良しとしてやれ」
「へえへえ。確かにな」
 子供の父親は後藤芳惠の別れた夫だった。男の子が生まれたと聞いた元の姑が、子供を渡せといって病院に乗り込んできたのだという。その手から逃れてこっちに引っ越してきたものの、後をたどられるのが怖くて出生届けも出せず、ここの住民票がないので公立の保育園にも預けられなった。それでは正社員の仕事になど就けるはずもない。バーの清掃という早朝のパートは時給もよく、何よりクライアントと顔を合わせる心配がないので、子供を連れて行けるのが魅力だったのだろう。だが安アパートを借りたつもりでも、家賃は確実に家計を圧迫してくるし、泣き声がうるさいと苦情を言い立てられたりもする。次第に追い詰められていった芳惠の眼には、海の向こうに見えるBL学園が眩く映っていたのに違いない。そして真面目な勤務ぶりを評価されていた彼女に、住みこみの家政婦の仕事が舞いこんだとき、子供がいるのを隠していた彼女の足は学園に向かっていた。
 啓太たちが見たスーツ姿の彼女は、面接にいったときのものだったのだ。住みこみならもう家賃の心配をしなくていい。食事もさせてもらえるだろう。その心が哀れに思えて、啓太は不用意にその話はできないと思った。
「えっと、ゴンちゃんの父親は離婚したご主人だったそうです。それで向こうが引き取るって言ってきてるんで、それも含めて今後のことを考えるって言ってました」
「なんだ。案外フツーじゃねえか」
 その一言で丹羽は話をおしまいにした。啓太が「言いたくない」という表情を作っているのに気がついたからだった。そして他の人間にそれ以上の追及をさせないため、手にしていた料理の皿をテーブルに置くと、内ポケットから書類の束を取り出した。
「おーい。みんな。食いながらでいいから聞いてくれ」
 それぞれみんな料理のテーブルに散らばっていたが、全員が手を止めて丹羽の方を見た。
「えーっと。今から言うやつ。明日も公欠だ。行くぞ。啓太、遠藤、郁ちゃん、七条、滝、海野先生、篠宮、そして俺。休みのついでに外泊許可も出てる。以上だ。みんなご苦労だった。明日はゆっくり休んでくれ」
 名前を呼ばれたメンバーが、丹羽から理事長印の押された書類を受け取った。
「じゃあ俺は遠慮なく外泊させていただきます」
 そういって和希は、中嶋や啓太と並んで立っていた篠宮に書類を手渡した。
「ということですので、中嶋さん。明日一日、啓太のことをよろしくお願いします」
「俺がか? 俺は公欠じゃなかったはずだが」
「啓太はあなたのために三日つかいましたよ?」
「……わかった、わかった。で、どうするんだ? 俺たちも外泊してホテルにでもいくか?」
 中嶋の問いかけに顔を赤くしながら、啓太は首を横に振った。
「いえ、あの……。ホテルはこのあいだ行ったばかりだし……。今夜は中嶋さんの、部屋……、で」
「だそうだ。篠宮?」
「なんだ」
「啓太は俺の部屋に泊まるからな。点呼なんて野暮はするなよ」
 おまえは……。と言いかけて篠宮はやめてしまった。
「まあいいだろう。伊藤は、いわば学園の名誉を守ったわけだからな。今夜だけ特別だ」
「よかったな、啓太。じゃ、俺は出かけるから」
「和希はこんな時間からどこへ行くんだ?」
「俺か?」
 ふふんと笑った和希は、啓太の耳元に口を近づけた。
「寺田さんたちとキャット・クロウへね。あそこのママ、無愛想だったけど、料理の腕はとびきりだったからな。二十歳になったらおまえも連れて行ってやるよ」
「寺田さんによろしく言ってくれる?」
「ああ。もちろんさ」
 和希が出て行ったのをきっかけに、西園寺もグラスを置いた。この三日間は彼らにとってもいささかオーバーワークに過ぎたのだろう。楽しんでいるメンバーに水を指さないよう、七条とふたりでそっと会場を離れていった。

 丹羽もまた大きな欠伸をすると、彼らのあとにつづいた。
「俺たちも部屋に戻るか」
「はい」
 啓太と並んで寮まで帰ってきた中嶋だったが、階段を上がりかけたところで啓太に鍵を握らせた。
「中嶋さん?」
「ああ。ちょっとすませておかなきゃならない用事がひとつ残ってるんだ。何。そんなに時間はかからんさ。先に部屋に帰って、ご褒美は何がいいか考えていろ」
「ご褒美、ですか」
「そうだ。今日は啓太のお願いなら何でも聞いてやる。ひとつでなくてもかまわないからな」
 啓太はしばらく不安そうにしていたが、鍵をぎゅっと握り締めると階段を上がっていった。その姿が見えなくなったのを確かめて、中嶋は三階の廊下に入った。そこからゆっくりと足を運んで、一番奥まった部屋をノックする。ドアを開けたのは七条だった。
「おや。これはこれは」
「西園寺はどうした」
「いますよ、中に」
「揃っているなら好都合だ。邪魔をさせてもらう」
「……どうぞ」
 片眉を跳ね上げはしたものの、すんなりと一歩退いた七条の脇をすり抜けて、中嶋は西園寺の部屋に入った。西園寺は七条と寝る前のお茶をしていたらしく、テーブルの上にはハーブティーのカップやポットが置かれていた。ドアを閉めてきた七条が、さりげなく西園寺の後ろに立った。
「何だ? 中嶋。わたしはおまえに用はないが?」
「わかっている。だが俺の方にはあるんでな」
 一瞬、西園寺と七条の視線が絡み合った。皮肉な顔でそう言った中嶋は、ふたりに向かって深々と頭を下げていた。
「西園寺も七条も。啓太が世話になった。礼を言う」 
 これが最後の「最悪の出来事」であった。中嶋最悪の三日間は、ようやく終わりを告げようとしていた。





いずみんから一言。

@ 自分が食べるようなふりをしてポテトサラダをお皿に取ります。
A さりげなくフォークを右手に持ち替えたら、サラダをすくって啓太の口元に持っていきます。
B ヒデのことですから「あーん」とは言わないでしょう。「さあ、食え」かもしれません。
C 力なく首を振って拒否されたので、そのサラダは自分の口に入れます。

伊住的に、とっても萌え萌えなシーンです(笑)。しかしヒデの「食え」を拒否できる啓太くん。
意外と大物かもしれません


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